寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

『ヤミ市 幻のガイドブック』  


戦後、新宿、渋谷、新橋、上野、池袋など、物資(特に食料品)を供給する農業地帯や漁場、およびそれを必要とする住宅地などの後背地と結びついた鉄道駅において、広大なヤミ市が形成された。配給だけでは食べられず、ヤミ市がなければ生きてゆけなかった。

最初は全くの露店市、そしてヨシズ張り、屋台、ベニヤ板と進化し、ようやく屋根がついた。やがて長屋形式になり、住む家のない従業員は天井裏で寝た。

各店舗は三畳ほどしかない。土地は戦災の跡地(他人の所有地)であったが、当時の行政と警察は「土地使用権も帝都復興のため」としてほとんど抵抗しなかった。

水道やガスはなく、電線は来ていたが、電力も電気器具も貧しかった。店の天井に裸電球が一個ぶら下がっていた。水は遠くの共同栓から戦災孤児が運んだ。下水はバケツに貯め、空き地へ捨てた。燃料は木炭や薪であった。

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石油缶を使ったご飯の炊き方(『ヤミ市 幻のガイドブック』p.101)

桶を使って都内の糞尿を農村へ送り、その見返り品として野菜を得た。野菜と糞尿とのバーター取引である。

食い物屋・飲み物屋と同じくらいの規模で、日用雑貨が売られていた。軍需品(たとえば鉄兜)を日用品(たとえば鍋)へ加工する「荒物屋」、焼け残りの日用品、輸入品などがあった。値段は公定価格の数倍から百倍にまで達していた。

ヤミ市を仕切っていたのは主として、テキヤと呼ばれる「組」であった。公定価格と統制経済にも関わらず生活も生命も保証されていなかった中で、生活必需品を打ち出の小槌のようにつぎつぎと並べて見せた。

全く異なる位相から社会経済の仕組みに切り込んでいけるテキ屋だけが、その状況に対応する方法を知っていた(p.185)

土地に縛られず実業を為す彼らの独自の論理は、自負も存在意義も見失っていた当時の一般大衆の閉塞情況を突き破った。





category: 昔の生活

昭和30年  


『昭和に学ぶエコ生活』という本を読んだ。読んだというか、眺めた。そのメモ。

昭和30年。この前後で生活が激変した。江戸、明治、大正、昭和初期くらいまでは、大して変わらない生活が続いていた。

・食事
ごはんに漬け物、味噌汁くらいしかなかった。たまに野菜の煮ものや魚がつけばご馳走。魚の頭から果物の皮や種まで、食べられるものはうまく料理して何でも食べる。

・重曹
油汚れは重曹で。重曹には生ゴミの消臭や除湿効果もある。夏みかんに重曹をかけて酸味を抑えてから食べる。食べ過ぎや胸やけの薬に。歯磨き粉に。少量を水に溶いてシャンプーに。つめ磨きに。金物磨きに。酸っぱくなりすぎた漬け物や味噌の味直しに。

・井戸
井戸の中は温度が一定で、夏場は冷蔵庫に。井戸水は桶やバケツで運び、水がめに入れておく。かなりの重労働であった。だから徹底的に使いまわし、節約した。

・道具類
ビニールやプラスチックが浸透する前は、樹木、竹や藁、イグサなどで多くの道具が作られていた。

・家
縁側が魔法瓶の真空部分のような役割。障子は少ない紙と木でつくられており、簡単に修理可能、そして経済的である。風や視線は遮り、光を柔らかく通す。
縁の下は、湿気を払い、防虫の効果もあった。夏は涼しさを保ち、冬は冷気の伝わりを和らげる。
壁は土壁。芯は竹で、縄で結んである。壁材は土と藁のミックス。手に入りやすいのは言うまでもなく、土自体が湿気を吸ったり吐いたりする。長く住めるし、最終的には土に還る。

・貯蔵
玄関脇の地面に1mくらいの板が敷いてあり、その板をどけると、藁や籾殻が詰まっていて、その中にサツマイモや自然薯などの根菜が保存されていた。
軒の下には、玉ねぎ、とうもろこし、ニンニク、トウガラシなどが吊るされていた。


著者は学芸員で「1993年より昭和の生活資料の収集に取り組み現在に至る」とある。うらやましい。


残念なのがタイトル。
どうしてなんでもかんでも「エコ」で解釈してしまうのか。もったいない。

「エコ」って、まさにこの概念こそが無駄で複雑なものが積み上がった結果の悪しき副産物、何か別の本当に醜いものを覆い隠すための美しい外見をしたお洋服のようなものであって、時代の歪みから生じた、物事を一面的にしか見ない、枝葉末節のくだらない概念だと思う。

「エコ」は人の行動の落としどころになるような上位の概念じゃない。
こういう偽の上位概念があるから人はものを考えなくなって、局所的で視野狭窄的なエコ活動「これはエコだから、こうするんです」を始めてしまい、しまいには義憤に駆られて「それはエコじゃないから、やめてください」と言い出す始末。
僕は「エコになりますから」と言われると、意地でもやりたくなくなる。

昭和30年以前の生活の素晴らしさはそういうもんじゃなくて、その土地に合った、その気候に合った、その季節に合った、最も効率的な、必要にして十分な生活が、文化として自然に形作られ継承されている、その美しさ、その穏やかさ、その満ち足りている感じにあると思う。他の瑣末な諸問題は、自ずから然るべく、追って解決されること。


そういえば、3年半の間、基本的に水洗い(アクリルスポンジ)だけでやってこれたし、たいして不便も感じていない。
しかし、考えてみると有機洗剤なるものがある。油で鍋や手がベトベトしたときに何か一つ洗剤があると助かるはず。
それで、この本を読む前のことだが、重曹を買った。

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ただ、重曹はアルカリ性ということで、畑に撒くことはできても、野菜には無害かどうか怪しい。




category: 昔の生活
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『農村生活カタログ』(伊藤昌治著、農山漁村文化協会)  



明治から大正にかけての著者(ごく普通の農家)の体験が綴られています。

具体的に参考になるというよりも、ほんのつい最近まで日本でもこんな生活が当たり前だったんだと思える本でした。


【水】飲用は共同井戸。家には80リットル程の水がめをおき、毎日水汲みをした。生活用水は、水路を引き入れ、各家はそこに洗い場を持ち、米とぎ、野菜洗い、食器洗い、洗濯、洗面、風呂用の水汲みなどを行った。

【燃料】薪またはそれに類するものが必須。木炭はカリ肥料に、藁灰の灰汁は洗濯剤として使われた。石鹸は貴重品であった。

【照明】石油ランプ、菜種油の行灯、カンテラなど。電灯がついたのは大正になってから。

【運搬】荷車(≠リヤカー)は、高価かつ荷車税という税金がかかり、普通の農家は買えなかった。しょいこやもっこなどが一般的で、後にリヤカーに取って代わられた。

【乗り物】歩くのが普通。人力車は高級で、時代が進むにつれて鉄車輪、硬いゴム、空気ゴムへと変化。

【食事】三食質素で食後には必ずお茶。朝は、麦飯に味噌汁、漬物。昼は、朝の残り物。夜は、飯を炊いたり、朝の飯を温めたりして、一品のおかず(サケやマスの一切れや、野菜の煮物など)がつく。粉物で米を節約し、少しでも多く米を現金化する。

【箱膳】家族全員が各々持っている、木箱様の膳で、この中に箸や汁椀、ご飯の盛られた茶碗、小皿、布巾が入っている。蓋を返すと膳になる。各自食事が終わると椀にお湯をもらい、箸で米粒などを落としつつ飲み干す。そして布巾で拭く。布巾は年に数回洗う程度で常には箱に納められている。食器も年二回ほど水洗いするだけだった。
(※この不衛生さは注目に値する。私は食器を水洗いして乾かしているだけだが、これよりずっと衛生的である。)

【農業】百姓は、鍬・鎌一丁あればできるといわれた。

【肥料】人糞尿が主体で、他はその補いにすぎなかった。農家には軒下に小便溜と大便所があり、屋敷の一隅に仕入溜があった。仕入溜は木桶を埋めたもので、雨水が入らないように屋根をつけてある。便所から下肥を汲み取り仕入溜に入れ、水で希釈して腐熟させる。下肥は自家だけでは不足するので、町場の家からもらったりする。台所の流し台は外の流し溜につながっていて、そのまま野菜に施されたり、いったん仕入溜に入れられたりする。他に、菜種油粕や米糠、鶏糞など、全て仕入溜へ入れて腐熟。
(※「流し溜」と呼ばれているものにどんな種類のものが落とされたのか、固形物か液体かすらわからない。※「水で希釈して腐熟」というのは、どういう過程なのか?醗酵なのか、腐敗なのか、別のものなのか。※別に「堆肥」という項があったが、何を指しているのか不明。野菜くずなど?野積みにしていたと書いてあるが、糞尿とは混ぜなかったということか?)

【家畜】家畜は稀だったが、鶏は多くの農家で飼っていた。みな放し飼いで、5~6羽。止まり木の下に糞受け、そのそばに産卵用巣箱を、犬猫の襲来を防ぐために高い所に吊るす。卵はごちそうで、家では食べず現金収入源に。ヒナは自家で孵化して育てる。雄鶏や廃鶏はときどき巡ってくる鶏屋に売却。自家で解体処理は珍しかった。
(※放し飼いの鶏が「止まり木」にどれだけ居てくれるのだろうか?※鶏は高い所まで飛べるんだっけ?)

【結婚】ほとんどが媒酌人による媒酌結婚であった。仲人が両家の間を往復して話をまとめる。話を持ち込まれると、それぞれに相手方の資産状況から家族関係・血統・家柄・親類関係まで調べる。近親に悪い病人や問題の人物がいるかどうかまで詳細に調べあげる。そのうえで、家柄・資産状況など釣合いがとれていれば話は順調に進む。先方の近所に知人でもいれば、それを頼っていき、何とか口実を設けて本人を外へ連れ出してもらい、物陰からそっと人物を見る。話を決める前にはもちろん親戚に相談をする。いろいろな事情で、家柄の極度に異なる家と話が決まると、親戚の中には、不満を爆発させて親類づきあいをやめる者も出る騒ぎになることもあった。こうして話が決まっても、本人同士は一度も顔を合わせることもなく、見合い用写真などもない。結婚式の夜まで全く知らないのが普通。恋愛結婚などとんでもないことで、周囲の反対を押し切って結婚しようものなら、「くっついた」といって軽蔑された。
(※おもしろかったのでほぼ原文まま)

【病気】病気になっても医者にかかる者は少なく、富山の置き薬に頼っていた。

【乞食】ぼろをまとい、各家を回って歩く。「乞食は三日やったらやめられない」といわれるほど収入があったという。多くは神社や寺の縁の下に住んでいた。

【風呂】風呂場を持っている農家は稀。移動可能な風呂桶で沸かす。夏は行水などで間に合わせる。冬は3、4日おきに近所の家にもらい湯に行く。どこの家でも風呂を沸かすと近所へ「お風呂に来てください」と案内をして歩く。

【虫】蠅・蚊との闘い。食べ物が出るとわっと集まってたちまち黒くなる。昼寝をして顔に集まって安眠を妨げる。便所、仕入溜、堆肥場など全てが蠅の発生源で、表面は蛆で真っ白になるほど。蚊も、蚊柱が立つほど発生。





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