寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

簡単な自己紹介  


・宇宙と時間について

私は、宇宙(物の世界)が、自分の意識や認識とは独立に存在していると信じています。また、その宇宙には、自分の意識や認識とは独立に時間が流れていると信じています。そうした「意識の外にある世界(外的世界)」としての宇宙は、常に意識の内部に留らざるを得ない自分には確かめようのない存在です。しかし、自分の素朴な信念を反省したとき、やはり「外的世界は自分とは独立に存在する」という前提で物事を考え、行動しているように思います。

仮に宇宙が存在するとして、それらの「物」や「時間」は、五感や想起・予期といった認識や意識の作用を通してしか知りえないため、自分の認識以前の「真の姿」は自分にはわかりません。しかし、再び自分の素朴な信念を反省してみれば、「物」に関しては、たとえば私の目に赤色に映るリンゴは、私や私以外の意識存在の認識以前には単なる電磁波を反射している物体であり、赤色をしていないと信じています。物理的な世界は無色無臭の世界であって、生命の意識にはそれが「赤」や「青」に映る、というわけです。味覚、聴覚、臭覚に関しても同様です。触覚は少し微妙なところがありますが、物が当たる感覚、圧力がかかる感覚、押し返される感覚、などは意識由来のものであり、「物が空間を占めている」こと自体とは違うだろうと思います。

一方、「時間」に関しては、私が過ぎ去った過去を想起したり、未来を想像したりするとしないとにかかわらず、つまり私の意識が時間を「感じるか否か」にかかわらず、普段認識しているような「時間の流れ」が全くそのまま客観的に存在していると信じています。唯一絶対の「現在」というものが客観的に存在して、それが刻一刻と移り変わるという仕方で「時間が流れ」ており、私はそれをそのまま認識しているだけだと信じています。つまり、私がいなくなっても(あるいは生命がいなくなっても)、時間は流れ続ける、ということです。なお、宇宙が時間空間的に無限であるか有限であるかは、わかりません。どちらだとしても自分の理解を超えています。

・存在と神秘について

私がこの世界で最も不思議だと思うことは、「存在」です。この世界で何が本当に「在る」と言えるのかは分かりませんが、物質であろうと、時間であろうと、意識であろうと、観念であろうと、物理法則であろうと、何も無いのではなく、何かが在ること。この世界が無ではないこと。最初は無であったのにある瞬間に何かが存在し始めたとしても不思議ですし、最初から存在していたとしても不思議ですし、そうした「発端の不思議さ」を除いても、今この瞬間に無ではなく何かがあることがとても不思議です。

この不思議さは「日蝕が不思議」というのとはわけが違います。日蝕の不思議にはカラクリがあります。存在の不思議にはカラクリがありません。何も隠されておらず、全てが白日の下に晒されていて、そうであるがゆえに一層不思議です。そうした不思議を「神秘」と呼ぶとします。神秘は、私自身ないしは人類の知恵の不足によるものではなく、人類の知能がこの先どれだけ進もうと、原理的に解決されえない不思議です。

・生命と意識について

さてしかし、この「存在の神秘」はあまりに不思議すぎて、圧倒されるばかりで手を付けようがありません。そこで、ほんの少しだけ問いを易しくします。存在して然るべきものを仮定し、思考の出発点とします。自分自身の素朴な信念を反省するなら、それは「宇宙」です。とりあえず「物」や「時間」は然るべくして存在するとします。そうして「まず最初に宇宙ありき」と考えたときに、私の目に不思議として映るのは、生命の存在と、意識の存在です。

生命と非生命との線引きは簡単ではありませんが、代謝して自己保存し、生殖して遺伝子を残そうとする、生物学的な、ないしは、生理学的な意味での生命が、物理世界に存在することは不思議です。たとえ生命の身体が物質によってできているとしても、私は生命が物理学・化学に還元されてしまうとは思いません。生命の誕生時に物理的に言って何が生じたのか解明されたとしても、それを生じせしめたことそのものが物理学に還元されることはないように思います。また、この生命現象全体がなぜ、なんのために存在するのか、その意味も「最初に宇宙ありき」という観点からは全く不明です。

さらに不思議なのが、意識の存在です。生命の不思議と意識の不思議は、とりあえず区別されなければならないと思います。なんとなれば、今現にあるのと全く同様に宇宙も生命現象もあったとして、つまり地球も人間もいたとして、そこに意識が無かった可能性は容易に想像できるからです。今現にあるのと同じように、人間が、リンゴによって跳ね返される電磁波を情報処理し、それに基づいて行動し、物を食べ、社会を形成し、命を繋いでいたとしても、そこに意識が伴っている(つまりリンゴが「見えて」いる)必然性はありません。意識の無い世界から意識が誕生したのは不思議ですし、この意識がなんのために存在しているのかもやはり不明です。

これら二つの不思議も、やはり神秘であると思います。ここで、もう一つの不思議は、「生命の神秘」と「意識の神秘」がどうやら同じところで生じているらしいということです。意識は、岩石や惑星ではなく、どういうわけか生命に伴っているように思われます。これが偶然であると考えるのは無理があります。だから、何か同一の原因によって生命と意識が誕生した(もしくは最初から在った)のだろうと考えたほうが自然です。そういうわけで、私は動植物の全てに意識の片鱗があると考える傾向にあります。だからと言って、木が自分を見ているとか、木が伐られて痛いとか、そういう単純な擬人は当たらないと思いますが、一種のアニミズムを支持しています。

・死について

私は、私自身がいつか死ぬと信じています。私にとって「死」とは、永遠の無です。無は、今現に存在している状態から捉えるなら、存在消滅と言ってもいいし、意識の非存在と言ってもいいです。私にとって生命や意識はとても不思議なもので、物理現象としての肉体に生命や意識が偶然的に付随しているだけだとは思えないので、肉体が滅びれば何もかも終わりかどうかはよくわかりません。けれども、「この私の意識」が残るような仕方で何らかの死後生があるとは信じていません。

私が最初に死に関してこのような描像を抱いたのは、小学校に入って間もない頃です。突如、数百年でも数億年でもない、二度と戻ってこない「永遠性」というものをリアルに思い描きました。私は至って健康であったし、私の周囲の人間もまた健在でした。私の生まれた時代は控えめに言っても平和で、命の危険を身近に感じるようなことはありませんでした。何より私は幸福で、満たされており、自分自身の生や現世を忌み嫌う理由は何一つありませんでした。つまり、何の契機も、何の文脈もなく、私の思考の中に突如、「いつか自分の存在は消滅して、永遠に戻ってこない」という考えが降ってきました。このことは端的に、私の抱く死についての問題が、少なくとも第一義的には、自身の病苦や、近親者の死や、時代の混沌や、あるいは自己否定感情などといったような私自身の人生の内部の問題には起因していないことを意味しています。以来、今日に至るまで、私の死の描像は寸分も変わっていません。死とは、「永遠の無」です。

私は死に対して「恐怖」と「不安」と「虚無」という感情を抱いています。一般に、「恐怖」の感情は対象が明確であるのに対し、「不安」の感情は対象が不明確です。私が「不安」を抱くのは、死そのものに対してというよりも、「実際にいつ死が訪れるかわからない」という不明確さに対してです。また、「虚無」の感情も、死そのものに対してというよりも、「やがて死んでしまう」という大きな暗闇を背後に抱えつつ、人生のあれやこれやのことをしなければならないということに対してで、つまり死を前提にした生に対する感情です。そういうわけで、私が正確に「死そのもの」に対して抱く感情は「恐怖」のみであると言えます。

・他人と孤独について

私は、他人にも意識があると信じています。自分の意識の内部に留まらざるを得ない以上、他人に意識があることを確認することはできません。しかし、私にとって重要なのは、私が物心ついたときに既に素朴に「他人に意識がある」と信じていたという事実です。この事実は、この世界に複数の意識があるということよりも、ずっと不思議です。なんとなれば、生まれて此の方、私は私自身の意識しか直接的に観察(内観)したことはないのに、また、学校の教科書に「他人にも意識があります」と書いてあったわけではないのに、他人にも意識があると自然に考えるに至ったからです。そして、私の見聞によれば、誰もが同様に、他人に意識があると素朴に信じているようです。そういう意味で、私自身も含め、本当の意味での独我論者(この世界には自分の意識しか存在しないと信じている人)はいません。

私は、ただ単に他人に意識があると信じているだけではなく、その意識内容も、自分と同じだと信じています。たとえば、リンゴの色です。私がリンゴを見たとき、私の意識には「赤の感じ」(クオリア、感覚質とも言います)が映ります。しかし、同じリンゴを他人が見たときには、他人の意識には「青(と私が呼んでいる色)の感じ」が映っていて、それをその人は「赤」と呼んでいるだけかもしれません。その人には、夕焼けや炎が青色(と私が呼んでいる色)に見えていて、その人は常に青色(と私が呼んでいる色)から温かみを感じる、というわけです。そうした可能性があるにも関わらず、それは後々になって湧いてきた懐疑であって、物心ついたときには素朴に「他人も自分と同じ意識内容を持っている」と信じていました。今もそう信じています。

他人の意識と自分の意識が独立しているという単純な事実は、私を孤独にさせます。他人が感じている痛みを自分が感じることはできません。逆も然りです。けれども、その一方で、「他人にも意識がある」「他人の意識内容も自分と同じである」と素朴に信じていることが、私には自分の意識と他人の意識とがとても深いところで繋がっている証拠であるように思え、また、そう素朴に信じている限りにおいて、私は孤独になりきることは不可能だとも思います。

・自由について

「自由がある」と感じるのは単なる錯覚であるという人もいますが、私は自分には自由があると思っています。たとえば、右手を挙げる自由です。しかし私にはその「自由」の正体があまりよくわかっていません。私の自由はいつ発動したのか。右手を挙げようと意志したときか、それとも実際に右手を挙げたときか。もし「意志する自由」だとしたら、意志することを意志したことになり、これは無限後退に陥りそうです。もし「意志に従って肉体的ないしは精神的な行動をする自由」だとしたら、意志すること自体が自由でない限り、結局自分の行動も自由ではないことになります。

「最初に宇宙ありき」とすれば、「自由」も不思議な存在です。自由もまた、神秘です。私は自由を端的に知っているのであり、そこには何も隠されていません。しかし、その「端的さ」ゆえに、より一層理解を拒みます。宇宙には自由はありません。ニュートン力学にも量子力学にも相対性理論にも自由はありません。命あるもののみに自由があります。自由も、意識と同様に、岩石や惑星ではなく、どういうわけか生命に伴っているように思われます。やはりこれも偶然とは思えず、何か同一の原因によって生命と共に誕生した(もしくは最初から在った)のだろうと思います。再び、私は動植物の全てに自由の片鱗があると考える傾向にあります。だからと言って、木が枝を動かせるとか、そういうことではありませんが。

・宗教と神について

「非合理的」という烙印の下に宗教を一刀両断してしまうのは簡単ですが、一筋縄ではいかない面もあります。第一に、この世界には合理性や科学によってはわからないことがたくさんあり、まさにその部分こそが自分の関心の対象だからです。第二に、私自身も非合理性ないしは「信じること」と無縁ではないからです。第三に、そもそも合理性と非合理性の線を引くのはとても厄介です。とはいえ、物語や擬人化による世界理解、神の存在、あるいは経典や教説をそのまま信じるといった、宗教の最も原始的な部分は、論ずるに値しないと考えています。また特定の宗教が提唱する「生き方」も、部分的に見れば役に立つことはありますが、不十分ないしは想像上の世界理解に基づいている以上、その全てを鵜呑みにすべきではないと思います。

宗教を「真偽よりも信仰を優先する」ものとして考えたとき、私にとって宗教が救済になりうるか否かは、「真でない」と分かっている事柄を信じることができるか否かに依ると思います。私には「真ではないと思っていることを信じる」ということがどういうことかよくわかりません。「信じる」とはすなわち「真であると信じる」ことに他ならないと思います。

・言葉について

私は言葉を使いますが、言葉の使用が何か自分にとって重要な問題に対する考えを偏らせ、あるいは歪めていると感じたことはありません。あるいは、自分にとって重要な問題自体が、言葉の使用によって問題然としているだけの疑似問題であるとも思いません。「言葉が無ければ思考も無い」とは思いませんし、「言葉が無ければその言葉の指示対象も無い」とも思いませんし、「言語の限界が思考の限界と一致している」とも思いません。たとえば、「死」という言葉が無ければ死は無い、とは思いませんし、死という現象は言葉の空間で扱えるものではない、とも思いません。

もちろん、違う人間が同じ言葉を使う限り、意思疎通や相互理解の問題は常に生じますが、それは単なる実践的な問題であり、そのことが何か自分の世界理解を根本的に歪めているとは思いません。私にとって言葉は、言葉以前の外的対象なり内的表象なりを記号化し他者と共有するためのものです。おそらくとても常識的な言語観だと思います。




category: ■未分類

死、書くこと、考えないこと  


 死ぬことが怖い。死ぬこと、つまり永遠の存在消滅。何を考えていても、結局、ここに戻ってきてしまう。もっと現実的に、どうやって生きてゆくか、という類のことを考えていても、次の瞬間には「そんなことはどうでもいいんだった」と、それまで考えていたことが死の観念によって一掃される。そして振りほどくように頭を空っぽにして、もぬけの殻のような時間を経て、また「どうやって生きてゆくか」と考え始め、ずっとこの繰り返しである。
 このことについて書いていいのか、書いていいならいつどのタイミングでどこに書いていいのか、書いたことを後悔しないのか、自分には全然わからない。けれども、この恐怖ないしは虚無という肉体的な実感を無視して何か考えたり書いたりしようとしても、なにもかもが断片的に感じられ、次の日には忘れてしまっているか、どうしてそんなことを考えていたのかわからなくなってしまっている。何かを書くときに一人称的な肉体感覚を話の糸口とすることは甘えだと思うが、そうでもしないと、些末なことも重大なことも何もかもがのっぺりと等価に感じられ、収拾がつかなくなってしまうのである。
 元来、死について考えることは、生きることを断片化してしまう。ずっと目的をもってやってきたはずの大小のことが、どこにも繋がっていないのだと知って、日常のあらゆる行為が、言葉が、バラバラになってしまう。生によって紡がれるはずの一つの物語を断片化してしまうのが死である。けれども逆に自分の場合は、まったく忌々しいことに、長く死について考え感じてきたので、少なからず死というものを幹として思考や行動が枝葉を広げてしまっており、「死について考えないようにすること」のほうが、自分の思考や記憶をバラバラにしてしまう。つまり自分は、死について考えようと考えまいと、どちらにしても、一つの整合的な存在として生きられない運命にあり、引くも地獄、進むも地獄、それがどうにも苦しい。
 書くことはひとつの救いである。なぜならそれがたとえ整合的でない、バラバラで矛盾したことでも、一枚の紙の上に、あるいは一冊の本の中に書けるからだ。それを持っていれば、いくらか安心する。
 最近ようやく少し読んだり書いたりできるようになってきたが、ずっと言葉を扱うのがしんどかった。せっかく頂いた大小の執筆の話も保留するしかなく、何か書けたら見ていただけますかと言ったきり。三冊目の本は無事に初版完売したようだが、増刷するほどの売れ方をしているわけでもなく、絶版ということになるだろうという話だった。寂しいものである。
 肉体感覚を思想的に昇華させることは、生産的な行動の一つであろう。つまり、「死が怖い」ではなく、「やがて死ぬことを知りながら生きている人間存在の矛盾」といった具合に。その矛盾は元を辿れば、人間が宇宙開闢の意識存在であると同時に、意識している自分を意識する神のような視点を持ちうることの矛盾であり、さらにその矛盾を見つめてゆくと単なる人間の認識のみに関わる(認識論的な)矛盾ではなく、世界そのものの(存在論的な)矛盾へと繋がっている。少なくとも矛盾した我々は、ただそこにありのままに存在している単一の世界というものがどういうものか想像することすらできない。古今東西の哲学はこのことを手を変え品を変え言っているものと理解している。しかしそうして思想的に遠くまで行って何か生産的なことをした気がしても、次の瞬間には、以前とまったく同じ場所ー恐怖と虚無ーに佇んでいることを見出して呆然とするのだ。
 「生産的な行動」の虚しさに打ちひしがれると、負の感情の渦に引きずり込まれる。物事を人生の内部の問題としてしか理解しない世間に対する絶望のような寂しさのような気持ち。自分の人生、あるいは他人の人生の「内容」が、良いか悪いか、恵まれているかそうでないか、幸せか不幸か、成功か失敗か、そういう物語語しか話さない世間に対して感じる孤独な気持ち。あるいは、それと相反するようではあるが、強迫的に死について考えてしまう原因はやはり自分の人生の内部にある(あった)のではないか、といった自己否定、後悔の類。大きすぎる生を戒めるために虚無が膨らみ、いくつかの要因によって生が萎んだとき虚無だけが残ったのではないか。しかし、仮にそうであったとしても、つまり、自分の生き方が間違っていたから死について考えてしまうのだとしても、それでもなお、死の問題、永遠の存在消滅の問題は、厳然として残っている。生き方が正しいかどうかなど、そんなことはどうでもいいのだ。いやしかし、この肉体的な苦痛の原因は死の問題そのものに起因してはいないだろう。何らかの現世的な理由があったはずである。いや、自分個人の人生の内容が苦痛であるか否かなんてどうでもいいのだ。やはりいつか死んでしまうのだから。いや、さしあたって生きてゆくためにはそのどうでもいいことが重要なのだ。そのどうでもいい「人生の内容」を良くしようとすることが唯一の生きる術なのだ・・・堂々巡りである。
 最近はよく東京でウーバーイーツというフードデリバリーの自転車を走らせるようになって、これが一つの逃げ場になっている。自分には、この仕事が良いか悪いか、つまり労働条件がどうとか、フードデリバリーが来るべきインフラのひとつとなるのかとか、これをすることで世界が良くなっているかとか、そういう難しいことはよくわからない。ただ、依頼を受けて自転車で走っている時は何も考えなくてよくて、それがものすごく気持ちいい。お金が増える増えない、どのくらい効率的に増える、という単純なことを考えているのも、何も考えていないのとほぼ同じで、気持ちがいい。本当に危険なくらい気持ちがいい。家に帰ってシャワーを浴びて一段落すると、また走りたくなり、明日になるのが待ち遠しいとすら思う。「何も考えない」ということをこんなにも求めていたのだなと実感する。
 「何も考えない」ことが自分の抱える問題の解決にならないのはよく知っている。むしろ「何も考えない」ことを万能薬のように称揚する仏教的なるものにはずっと反感を覚えてきた。ただ自分の場合は、解決のない中でそれでも生きてゆくための現実的な方法として、つまり対症療法として、あるいは道具として、今はなるべく何も考えない時間を作らなければならないように思う。自分は無趣味なもので、趣味に没頭するような「何も考えない」時間を作ることがとても難しかった。だから「良い趣味ができた」とも言える。頭を空にして核心的な問題を考えないようにするために、これまで様々なアルバイトや畑、歩くこと、数学といろいろ試してはやめてしまっていたが、果たして今回はどうなるだろうか。
 走っていると気持ちがいい反面、止まるのが怖い。依頼が来ないときは闇雲に走り回っても仕方が無いので止まることもあるのだが、そうするとこれまで猛スピードで動いていた風景が静止し、ずっと耳を覆っていた風切り音が止み、血の巡りの良くなった体だけがただそこにポツンと佇むことになる。そうするとまたいろいろと考えてしまう。
 自分は、日常が欲しいのだ。そして日常を見失ったとき助けになるのは、たくさんの人が同じ日常を共有しているということ。自分もその共有された日常の波に無意識に乗っているということ。自分が小屋暮らしを続けられないと思った最大の理由。自作小屋の暮らしは、自分一人の意識が、自分一人の日常が、自分一人の正常さが、すべてである。それが崩れたときにすがるものがない。これを弱さだという人は、本当に目の前がグラグラした経験や、思考そのものに吸い込まれるような危機を覚えたことが無いのだろうと思う。もちろん、他人と共有された日常も盤石ではない。けれども、生きてゆくには、「考えることをやめる」「他人の意識に身を委ねる」といったような非本質的な助けが必要なのだ。
 春も幾日か小屋へ帰った。いつも通り小屋の内外をきれいにして、湧き水でコーヒーを飲み、来し方行く末を思い、静かなロフトで深く眠って、そして東京へ戻ってきた。特筆すべきことはなにも無い。宿泊費無料の小旅行と思えば最高であるが、そこには「暮らし」としての矜持は無い。そういえば、バイクの整備マニュアルを購入し、徹底的にバイクを直すのが春のメインイベントとなる予定だったが、肝心のマニュアル本を東京に忘れてきてしまった。なんだか最近そういうのが多い。前はそういう類のミスは滅多にしない人間だったのだが。
 僕はとにかくゆっくり生きてゆきたい。「ゆっくり生きてゆくことで得られる何か」を謳うつもりは毛頭なくて、忙しくしている人は忙しくしている人で充実しているということはよくわかる。けれども、自分には向いてないと思う。自分には、節約しながらゆっくり生きてゆくのが性に合っていて、将来的にも田舎か都会かはわからないが、そういう生活をしたい、そういう生活しかできない。




category: ■未分類

心ここにあらずの日々  


・アパートを借りた

今年に入ってから都心にアパートを借りた。家賃32000円、洗濯は手洗い、給湯器があるのでシャワーを自作した。

自分の自作小屋は、社会の物語とは切れている。だから、小屋という日常生活がそのまま自分一人の脳内である。したがって、自分の中で時間が止まれば生活全体の時間が止まってしまうし、自分が悲しければ生活全体が悲しくなるし、邪魔がない代わりに逃げ場もない、そういう場所である。何かを根詰めて考えたときにリフレッシュすることができるような「日常生活」がない。

では、都会の暮らしはどうかというと、空虚である。小屋で暮らしている時よりもずっと空虚である。確かに多少の逃げ場はあるかもしれないが、逃げれば逃げるほど自分が自分であるという感覚がなくなる。何から逃げるのか。「自分の死」と「他人の悲しみ」である。逃げている限り、何をしていても他人事のようである。心ここにあらず、現実感なく、ぼんやり生きている。

つまり、第一に、自分自身であることは苦痛であり、第二に、自分自身でなければ虚ろである。そして、第三の選択肢はわからない。


・バイトを始めた

部屋なんぞ借りてしまったので、仕方がないからいくつか不定期のバイトを始めた。

清掃のバイトは最も自分に合っている。清掃は、無心でできるわりに同一工程の反復のような単純作業でもない。また清掃は、金持ち相手のしょうもない商売ではなく、食糧生産や医療と同様、かなり原始的なレベルで必要とされる仕事である。

他に、ストレスしかない仕事もある。会社というのはなんにせよ、営利追求集団である。あの笑顔も、あの情熱も、あの言葉も、全部「ビジネス」が背景にあるのだ。ビジネスマンと付き合うのは虚しく、そして心底疲れる。そもそも自分は「こんな仕事必要ない」から始まるので、仕事も人間関係もうまくいくはずがない。それでも顧客や関わる人々が喜んでくれればと思ったが、自分は人間にモテないし、自分には他人に分け与えられるような熱量はないのだと思い知った。今は何も期待せずにやっている。


・年齢が進んだ

自分には、いわゆる青年期、中年期、あるいは壮年期というものがほとんど無かったようにも思う。少年期が終わるかなと思っていたら、老年期の入り口が見えていた。自分は昔から、周りが妙に大人びて見える傾向にあり、つい最近までは20歳以上の人はみんな自分より年上に見えたものだが、この頃は外見においても内面においても、ああ自分はもう若くないのだと感じることが多くなった。そんなことを思っていたのも束の間、もう若くないどころか、60代くらいの人はみな、僕よりよほど自分の心身に自信を持っているように見える。

年齢が進むにつれて自分ができることの可能性が狭まり、若い頃のように「なんでもできる可能性」に惑わされることが少なくなった。これとこれをやってきた、したがって、これとこれをやって生きていくしかない。数論を一から習得して何か定理でも証明できればただ生きるだけではない素敵な人生になるかもしれない、というような馬鹿なことを考えることもなくなった(実はかなり最近まで気が付くとそういうことを考えていた)。老年期とは何かと言えば、そうした衰えや、可能性の狭まりや、虚無感などに抗っていた中年期をこえて、それらと一体化していく過程だろうと思う。


・小屋で暮らす

小屋は「いつでも帰れる場所」だということをよく書いてきたが、具体的にはどういう意味だろう。もちろん経済的な意味もあるが、どちらかというと「精神的なスイッチを切って無になれる場所」という意味である。しかしこれは、スイッチオンで走り続けなければならない場所に対するアンチテーゼとして初めてありがたみがあるもので、生活と人生の全体を長く小屋に閉じ込めてしまうと、スイッチを切る意味もなくなる。人は全き無のうちに生きることはできない。そういう意味で、僕は小屋へ帰ることが怖いと思う期間がかなり長くあった。

・・・などと言いながら、最近また小屋に帰ってきて水を汲んだり土をいじったりなどしていると、すこぶる体調がいいから困ってしまう。体調だけではない。頭も冴えてくる。静かな夜には考えがスルスルとまとまってくる。寝つきもいいし、寝起きもいい。あの首や肩のだるさはいったいどこへ行ったのだろうか。逆に都会で生活していると、便利で快適なはずなのにどうしてあんなに体調が悪いのか不思議である。


・畑を耕作した

ジャガイモ40kgを500平米に植え付け、大豆も350平米播種。草刈り機があるのになんとなく鎌で草刈りを始めてしまい、気が付いたら一反の除草を終わらせていた。なんとなく始めたときに軍手をしていなかったので、これまた最後まで素手だった。手が傷だらけである。こういう馬鹿なことをたまにやってしまう。自分の素手がどこまで耐えられるのか楽しんでいるような気もする。

近所の人が言っていたが、大豆を枝豆の段階で収穫するのは簡単だが、大豆まで待つのは虫や病気のせいで難しいらしい。考えてみれば大豆は人でいう老年期だが、枝豆は青年期なので、健康で元気なのだろう。今年もなるべく枝豆の時期に収穫してしまおう。

枝豆は連作できないらしいので、昨年枝豆やった場所をどうするか迷った。ジャガイモは何度か土寄せしたほうがいいくらいで、そんなに手間がかからないだろう。収穫後の鮮度保持もシビアではないので、ある程度ストックしてから発送できるのが良い。ただ、ホームセンターで買うと種芋代が馬鹿にならない。サツマイモやサトイモは放置可能だが、やはり種芋(蔓)代が馬鹿にならないし、どちらも大量に食べるものではない気がする。大根は真っ直ぐにならないし、重量比単価が安く通販には向かない。トウモロコシは背が伸びるので昨年強風で倒れた。この中だったらジャガイモだろうか。種芋もネットで比較的安く手に入る。というわけで今年のラインナップは枝豆&ジャガイモ。オクラ、インゲンも少しだけ播種、ナス、トマト、かぼちゃは自給用にそれぞれ苗を一本だけ植えた。


・書くこと

何の予定も目標もないが、相変わらず何になるともわからない文章を書いている。思いつくままに断片を書き連ねてストックしてゆくのはあまり良いことではない。そうして積み重ねた断片的な言葉の大半は、結局何にもならない。いつかまとまった文章を書くときに材料になるかと思いきや、断片的な言葉の蓄積のせいでむしろ筆が重くなることすらある。書くときは、茫洋と書くのではなく、なるべく目的をもって最初から何かの形にするつもりで書いたほうが良い。わかってはいるのだが、昔からの癖で何になるともわからない断片を書かずにはいられない。吝嗇と書くことは、全く治らない。

最近よく考えていることは、自分の虚無の根源は何なのか、必然なのか偶然なのか、ということである。虚無は、人間存在そのものから必然的に生ずる問題なのだろうか。ずっとそう思っていたのだが、最近は、実はそうでもないかなと思うところもある。生死の問題を突き詰めて考える人でも、「虚無に陥る」という事態を免れているように見える人はたくさんいるからである。そういう人と自分との違いは何だろうか。虚無は「生き方」の問題ではない、と言い切れるほど、自分は清く正しく生きてこなかった。だから、自分の境遇であるとか、生活環境であるとか、人間性であるとか、過去の行いであるとか、時代背景であるとか、精神状態であるとか、思考過多であるとか、「いま」「ここ」の実存的態度を欠落させる偶然的な要因を逐一紐解いていって、虚無の根源をはっきりさせたいのである。こうして思考することや書くことが、自分の頭の中の時計を止めて、余計に虚無に結び付くのだと知りつつ、この数年間、不安に駆られて夜な夜な書き殴っていたのは、ほとんどその種のことである。

そもそも、今この瞬間に身に迫る虚無を感じている人、自分の頭の中から出なければ気が変になりそうな人ってどのくらいいるのだろうか。現実社会ではそんなことを話す人は滅多にいないし、逆にインターネットでよく流れてくる言葉は妙に軽く聞こえることがある。どのくらい真摯なものか判断がつかない。総じて、どのくらいの人が、どんな種類の虚無を、どの程度感じているか、全く判断がつかない。まあ、他人のことは置いておいて、とりあえず、自分である。自分が生きてゆくために、自分の虚無について考えなければならない。





category: ■未分類

プロフィール

最新記事

最新コメント

著書

寄稿など

カレンダー

カテゴリ