寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

実践と思想 福岡正信『無 自然農法』を読んで  



『わら一本の革命』は読んだことがあるが、こちら『無』は初めて。全三巻1000ページに及ぶ大著だが、著者が繰り返し言っていることは以下のように集約されて、いくつかの留保を除けば、それらはその通りなのだろうなと思う。

・価値があると喜んでいるものは、予め人間が、それが必要になるような条件を作っているにすぎない。肥料然り、農薬然り、機械然り。

・人間の微視的で短期的な分別知に基づいた人為の介入は、やればやるほどしなければならないことが多くなるだけであり、無限に苦労が増大する。肥料然り、農薬然り、機械然り。

いくつかの留保というのは、

・人口が既に爆発してしまっているという事実。短期的な収量に拘らざるを得ず、ハイスピードの自転車操業を免れない。

・何億年もかけて作ってきた原油がリッターわずか100円足らずで購入されている。この石油価格の安さにより、科学農法と自然農法を比べて、個人の収支としては単純にプラスマイナスゼロにはならない。極端に言えば自分の家に油田があればそれを使ったほうがお得なわけで、全世界がそれに近い状態にある。

・弱体化した作物を挙げるまでもなく、農耕(強制的、排他的、単一的、反復的、保護的な栽培)は既に野草採集ではない、つまり自然ではないので、自然と全く同じでいいわけがない。その微妙なバランス、線引きの問題。

極論であるはずの「無価値」「無分別」「無為」を強調しすぎていて、こういう現実的な問題に全く触れられていないが、あれもこれも考慮しているとつまらない本になるし、力強い思想書としては極論ないし理想論でいいのかもしれない。

それより気になったのは、自然農法がそれより大きな哲学ないし世界観に支えられているような雰囲気で書かれているが、実際は明らかに逆で、著者には農業、特に自然農法という核がまず最初にあって、本来その狭い分野でしか通用しないことを、まるで普遍的であるかのように拡大しているにすぎないということ。古今東西の哲学に触れられているが、あらゆることを自分のテリトリーである農耕に関連付けて解釈するので、誤解も多い。

例を挙げればきりがなく、価値について、分別知について、人知無用論について、時空の概念について、全部そうなのだが、たとえば因果関係について。著者は短期的な因果関係の存在を認めた上で、長期的に見るとわけがわからなくなると言っている。確かにその通りだが、だからと言って、いきなり無因果となるわけではない。農耕をうまく遂行するためには、短期的な因果関係に基づいて解決策を見出してはならない、たとえばある虫が葉を食べるからと言ってそれを農薬で除去すればいい、あるいは何かの養分が足りないから足せばいいという問題ではない、というだけのことである。これは哲学でも世界観でも何でもなくて、非常に実務的な頭の働かせ方である。

立体的有機的因果関係というのは、換言すると、部分的に見れば原因や結果があって、全体的に見れば原因も結果もないというのと同じである。つかみどころがないから、対策も立たないはずである。自然には因果はない。本来、自然には始めも終わりもなく、一も二もなく、原因もなく結果もない。因果は存在しないのである。(Ⅲ、p.75)

「自然」という言葉が何をどこまで意味するのかわからないが、非常に乱暴な論の進め方である。それというのも、やはり、殺虫剤を使って害虫とされている虫を殺してよしとする科学農法に対するアンチテーゼとしての自然農法というものが常に頭にあるからだろう。微視的・短期的・分析的な科学の手法は農業では通用しない、生き物の世界はそんなに単純ではない、ただそう言えばいいだけのことである。

あるいは、以下のような問答がある。

「近代農法に対抗して自然農法(無為の農法)が成り立つということは、科学的な知恵によって造り出された、肥料、農薬、大農具が無価値であることを実証したことになる。すなわち人知が造りだした価値ある物が、やり方次第では無価値になるということは、逆に言えば人知の無価値であり、人知無用論が成り立つことになる。」

「農業以外においても、同じことが言えるであろうか?」

「すべての事柄においても同じである。・・・では、この世の森羅万象一切の事物は無価値であるかと言うと、そうではない。・・・人知や人為を放棄したところに実在する、一見無表情に見える自然の実有の世界は価値高き世界である。」(Ⅰ、p.99)

さてここで、価値とは何かと問われれば、自然的であることと答えるだろうし、自然的なるものがなぜ価値があるかと言えば、結局のところ、そのほうが持続的に農耕を営むことができるから、ということになるだろう。堂々巡りなのである。自然的なるものに捉われすぎて、非自然的なるものが見えなくなる。そうなってしまうくらいならば農業はおろか、自然的な生活など御免である。

何かを実践・行動している人の思想というのは、その実践を核として語るがゆえに、ある角度からの真実しか見ていない。本書の著者であれば、持続的な農の営みを成功させる、という目的で思考が閉じてしまっている。確かに目的や、主張すべき核となる物事があれば、それを肯定するための知識を芋づる式に獲得してゆくことはできる。けれども、それは真理とは無関係であるし、教養とも言わない気がする。

自然農法自体の良し悪しの判断は僕にはできないが(個人的な感想を言えば、有機農法と自然農法の中間くらいが適切な線の引き方なのではと思う)、それ以外の大部分は、すごい無駄なものを大量に読まされたという気持ちである。

繰り返すと、著者はまるで、この世界の真理や原理から自然農法を導き出しているように書いているが、何のことはない、自然農法という色眼鏡でこの世界を見ているだけである。著者は思想家ではなく実務家である。健康な稲を育てて、それを見ながら与太話をしていた好々爺である。





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『ハワードの有機農業』 全ての生物は生まれながらにして健康である  




自然農法について調べていたところ、『自然農法とは何か: ゆらぎとエントロピー』という電子書籍に次のような記述があった。

有機農業の理論については『農業聖典』を超えるテキストはないし、自然農法では『無』以上の本は存在しない。両方とも70年も前の本だ。

『無』はご存知、福岡正信翁の著。そして『農業聖典』のほうは有機農業運動の創始者アルバート・ハワード著ということであった。『農業聖典』はすぐには手に入らなかったので、ハワードのもう一つの主著である『ハワードの有機農業』を借りてきた。冒頭、ロンドンタイムズ紙を引いて書かれているところによれば、

(ハワード)卿は多くの著作を残したが、とくに著名なものはAn Agricultural Testament(『農業聖典』)と、鋭い理論武装の書ともいうべきFarming and Gardening for Health or Disease(『ハワードの有機農業』)である。(上巻p.2)

下巻の冒頭、ハワードは肥培(施肥による栽培)の必要性を述べる文脈で、「自然こそ至上の農民であり、農業は大自然の営みに対する干渉、妨害、中断である」という大前提を語る。曰く、

端的には、肥培の必要性が求められる背景には、自然の循環に基づく肥沃度(地力)の維持機構が妨害されることから生じる。この問題は、人間の利益のために動植物界の生命を操作しようとする人間の行為に原因する諸矛盾のなかでもっとも著しいものであろう。だとすれば、耕耘・播種や刈取りの作業―農業を構成するすべての行為―は、生物界における成長と腐朽の過程で構成される生命現象の緩慢で複雑な仕組みに対する中断であり干渉である。(下巻p.11)

だからこそ肥料が必要なのだ、というのが著者の農業観、とりわけ有機農業観の根幹である。

実施された介入の性格が十分に理解されていて、自然の循環を適切な方法で復活するための処置が講ぜられているとすれば、多くのことが人間によって完成されるであろう。これが農業の技術なのである。・・・農耕の原則は、自然から取り去ったものは取り出したところに返還しなければならないし、奪ったものは復元しなければならない。生命の輪廻はしばしの間もとどめてはならない。(下巻p.12)

ただし、化学肥料の施肥はその原則に沿わない。一時的な増産は「土壌という資本の略奪に依存している(下巻p.13)」「地球の表面を大面積にわたって不毛化し・・・土壌の肥沃度という形で後世に残すべき財産は、全人類を益するために使われるのではなく、不誠実な方法によって現代を豊かにするために用いられてきた。そのような体制は永続しない(下巻p.10)」、そして「略奪行為」「浪費家」「山賊行為」などという言葉によって強く非難されている。「われわれの産業、われわれの商業、そしてわれわれの生活様式が、一般に最初に地表の略奪、つぎに相互の侵略に基礎をおいてきた(下巻p.111)」結果、戦争と文明の破局を招いたとすら言う。

そこで腐植の供給、つまり有機肥料の施肥なのだが、ハワードは森林などの自然の姿に倣い、動物性と植物性の廃棄物を混合し好気的に堆肥化することを薦めている。特に、都市部の廃棄物は元の場所、つまり農村へ戻らなければならないと強調している。その他、表土と心土の無機成分の循環を促す心土耕、緑肥や雑草を利用し土に自動的に腐植を作らせる土中堆肥法、アゾトバクターによる窒素固定などを推奨。

順序が前後するが、「自然こそが至上の農民である」ということの詳細は、主として上巻で語られている。生命の性質とは、多様性、安定性、生と死のサイクルである。これらの性質の正常な運行は、自然の膨大な備蓄を基礎としている。すなわち、過去の生命の死骸や排泄物の集積ー腐植―こそが生命の根源である。この腐植を元に「自然は土そのものが肥料工場になるように仕組んでいるのである。(上巻p.59)」自然界においては、腐植は取り去ったら必ず元に戻る。この還元の法則が自然そのものが営む農業の基礎である。

したがって、人間が営む農業もそれに倣わなければならない、と続く。それをせずに、自然が長年かけて蓄積してきた豊かな腐植を消耗し、土壌の肥沃度を収奪するだけで、不毛の地と化していった歴史(植民地、機械化、そして化学肥料)が例示されている。

肥沃度を使い果たすことは、過去の資本と将来の可能性を譲り渡すまやかしの豊かさである。・・・つまりそれは、自分自身を防衛する立場にない次世代からの強奪を意味している。(上巻p.109)

土壌の肥沃度が低下し、団粒構造が失われることで、土壌侵食(流出、飛散による荒廃)が促進され、あるいは、アルカリ土壌が形成されるといった弊害が生じる。これらは土壌そのものの病気である。また、根圏の環境が悪化することで窒素循環が停滞し、蛋白質が適切に合成されなくなることで、免疫力・抗病力が低下し、作物自身も病気に罹る。

ここで述べられていることは今日では有機農法のテキストに当たり前に浸透していることなのかもしれない。しかし、「そのような考え方は、最近一般に普及している自然観とは著しく相違している(下巻p.13)」ような化学全盛の時代に初めて体系的に著されたのが本書である。

最終章は、「新鮮な基盤―地上の緑のカーペットを十分に利用すること―に基づいてわれわれの文明を建設すること(下巻p.116)」を世界に提示された課題として挙げ、「そのときこそ文明は長足の進歩を遂げて、輝かしい太陽の時代が訪れるであろう(下巻p.117)」として締め括られている。





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訪れた唯一の春の朝を逃さないように  


今日は僕が好きなフランスの哲学者、ヴラジミール・ジャンケレヴィッチについて。

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ジャンケレヴィッチは決してメジャーな哲学者ではなく、日本の大学の講義やゼミなんかではあまり扱われないし、哲学科の学生ですら知らない人が多い。確かにジャンケレヴィッチの著作は哲学らしい論理的な思想体系とは言いにくい部分がある。フランス系の哲学者に多いのだが、体系を作り上げるというよりも、自分の確信した真理を何度も何度も詩や音楽のように言葉を変えて繰り返すのである。

その真理というのは、「死の虚無」と「生の神秘」である。どちらか一方ではない。その両方を誤魔化さずに直視する。ジャンケレヴィッチの対談集『死とはなにか』の編者曰く、

ジャンケレヴィッチは・・・「死の虚無」から目を逸らさず、また「存在と生の神秘の扉」を閉ざすこともしない。『死とはなにか』p.10

たとえば、「死の不安」の出どころを的確に表現して曰く、

自分の人生の内部にいながら、自分で自分を見渡す、つまりその外に立つという矛盾から、死の不安が生まれるのです。この不安は、内側から生きるとき永遠として思われる生と、外から見るとき有限であらざるをえない生との衝突から生まれます。『死とはなにか』p.21

「生の無意味さ」も言い表すところ明快にして、

生の内部で生に関する限り、物事は目的を持っています。生には内在的な目的があるのです。私の一日、私の仕事には意味があります。意味がないのは、その全体なのです。私の人生は、たぶん、他の人生に対しては意味を持つかもしれません。だが、死によって閉ざされた私の人生全体には意味がない。『死とはなにか』p.28

「逃げ道」も躊躇なく塞ぐ。

たとえば、来世とは未来の人類のことだと言うひとがいます。そういうひとは、子孫に、未来の人間に自己の再生を夢見るのでしょう。かくして、人類は永遠であるというわけです。しかし、私には駄目です。『死とはなにか』p.45

宗教的解決も一刀両断する。

往々にして、信者は来世に対して容易に信仰を抱き、死を死後の生の入口として、彼岸を此岸の続きとして、より心地よい此岸として考えています。・・・私に言わせれば、これはとうてい真剣な態度とは言えません。『死とはなにか』p.49

こうして「死の虚無」を見つめはじめ、時空の無限性に意識を持っていかれると、いま目の前にしている生活のディテールが霞み、たった一瞬の「生」は限りなく収縮し押しつぶされそうになる。ジャンケレヴィッチも曰く、

私たちは自分がいずれ死ぬことを頭では知っているのですが、それを腹の底からは納得しないのです。もしそんなふうに納得したら、私はもう生きていけません。『死とはなにか』p.27

「死の虚無」を執拗に説き、そちらにばかり真理を見る哲学者はいる。たとえば中島義道がそうである。中島の場合は「死」を軸に自分自身のアイデンティティを確立してきた向きがあるので、実は彼が死を説くその裏側には大きな生が隠れているのであって、安易に中島を「死の哲学者」と取ることはできないのだが、いずれにせよ著されている内容は偏っている。「死の虚無」を誤魔化すことが欺瞞であるように、「生の神秘」を誤魔化すこともまた欺瞞である、つまり真理からは遠ざかるはずなのに。

また「生の神秘=実存」にばかり目を向け、それを称揚する芸術、宗教、哲学も多い。僕は仏教はこの部類なのではないかと思う。「自我」が何であれ、安易に「自我」の消去・解放を謳う仏教は、「生=実存」の消失・対極としての死、その虚無や恐怖というものに全く思い至らない、まともに考えられてすらいない、問題の俎上に上ってすらいないように思える(参照:仏教は何も教えてくれない)。

実存と死とは表裏一体であり、実存に気付くことは死に気付くことであり、死に気付くことは実存に気付くことである。ジャンケレヴィッチは「死」を「実存のおそるべき子供」と表現している。

「実存のおそるべき子供ともいえる死が嗤うと、優雅な仮象の世界に大いなる混乱が起こる」のだ。そのとき、もはや仮面や扮装は役に立たず、誤解の余地なき大いなる単純化が訪れて、一切の虚栄が拭い去られ、私たちはただもう慰安を求めるしかない。『死とはなにか』p.8

しかし逆に言えば、死に思い至った者は実存に気付くこともできる。今この瞬間にここにいる神秘、すなわち生の神秘、存在の神秘に気づくことができる。

私の言うのは、私の人生やあなたの人生、私たちがいま、この瞬間にここにいるということが、よくよく考えてみれば、とても不思議なことだということです。『死とはなにか』p.50

そしてその神秘は、物事の内部にいるだけでなく、それを外部から思考することのできる、つまり理性ある人間だけが知ることができる。

神秘とは、理性をそなえた人間、理性的な人間に対してのみ存在する何かです。死の内部にいると同時に、その外部にいる人間、死を考え、その限りで死の外へ脱け出す人間にとってのみ存在する何かです。『死とはなにか』p.57

つまり、「生の外部」に出るからこそ生でないものとしての「死の虚無」に思い至るのとまったく同様に、「死の外へ脱け出す」からこそ死ではないものとしての「生の神秘」に思い至ることできる、というわけである。

かくしてジャンケレヴィッチは「どうせ死んでしまう」的な諦めを嫌い、「死の虚無」に浸りすぎて「生の神秘」を見失ってしまうことに対して警告を発している。

「訪れた唯一の春の朝を逃さないように!」と忠告するジャンケレヴィッチが、諦観の哲学者たちを相手に挑む弁舌の試合は見ものだった。『哲学教師ジャンケレヴィッチ』p.116

「訪れた唯一の春の朝」とはなにか。もちろん人生の内部のあれこれの「春」ではない。生そのもののことである。





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