寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

小屋が好きというより  


僕は小屋が好きというより、手作りのものが好きなんだと思う。

最近お世話になった編集者さんが『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』という本が好きだそうで、僕は知らなかったので初めて読んだのだが、これがどストライクであった。郵便配達夫だったシュヴァルが33年間かけて、周囲に白い目で見られながら石を拾っては積み上げて巨大な建築物を作ったノンフィクションである。

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小屋にしても、小屋から手作りの要素が抜け落ちてしまうと、僕はまるで興味が無い。たくさんの道具や機械も興味が無いし、建築の知識なんてまるで興味が無い。人の小屋を作ることに興味はないし、誰かに小屋を作ってもらうことにも興味が無い。プロやセミプロのような人が作った小屋は、それがどんなに美しくどんなに機能的であっても興味が無い。それよりか、何も知らない素人が妄想に妄想を重ねて素手で捻り出したような、そんなのが好きである。無計画にはじめて、継ぎ接ぎでどんどん体積が増していって、気がついたらこんなになってましたみたいなのが好きである。

いろんな知識、技術、道具を知っている人の作るものは、要は多くの人間の知識の集大成みたいなものが道具や技術を通じてそこに顕現しているわけだが、僕は結局そんな合理的な構造物、つまり正解に興味があるわけではなく、その人個人に興味があるわけで。それを芸術といえば芸術なのかもしれないが、ただやっぱり美術館に飾ってあるような紙や粘土の上で昇華された想像力ではなく、生活というものに直結した想像力が(あるいは逆に想像力のなさが)好きなのだ。

シュヴァルほどではないにせよ、小屋暮らしのブログを書いている人たちの、たとえば千葉のかつやさんの波板で囲まれた雑然とした小屋とか、からあげさんのブルーシートがたなびく居住者が直立できない小屋とか、何でそうなったのか笑えてくるような小屋が、僕は本当に大好きである。

今突然ハウルの動く城(映画そのものは見てない)を思い出したが、なぜだかあれには惹かれなかった。あれは「なんだかわけのわからない集合体」というコンセプトが、つまり製作者の意図が透けて見える気がする。手作りはよくても、「手作り感」を出そうと最初から意図されたものはやっぱり気持ちが悪い。



それでは意図のない、虫の巣とか、動物の巣なんかが好きかというと、それもまた違う。「手作り」と「営巣本能」とは違うもので、僕は小屋作りの動物性みたいなものに惹かれているわけでもない。アリの巣とか確かにおもしろいのだけど、彼らにはヘンな奴がいないので、同じようなものしか作らないから。やっぱり面白いのは、本人は真剣なのにヘンな人間である。





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こういう場所が欲しい  


最近いくつかコミュニティの話題を目にしたので、僕が欲しいと思う「人が集う場所」に関して。ディテールは書き始めるとキリが無いので、ざっくり、青写真のみ。


・コミュニケーション必要なし
勝手に来て好きなだけ滞在して誰にも知られずに帰ってゆけるような、そんな場所。たとえば、コミュニティスペースは入り口ではなく最奥に設けるなど。

・土地代、賃料は無料
ただし各々数坪程度、テント持参、自作小屋、キャンピングカーなど最低限のもの。

・ご飯は無料
本当に基本的な食材だけ貯蔵してあって好きに食べていい感じ。畑を所有。

・義務は無し
特に畑を手伝うとか、瞑想しなきゃいけないとか、すべきことはない。数学をやっていてもいいし、地面を這う虫を眺めていてもいいし、寝ていてもいい。

・電気、水、ガス、シャワー、トイレなどインフラ無料
ただし、母屋のみ?


コミューンではない。共同生活ではないし、閉じられた空間ではない。来る人は与えられるだけで、何も与える必要が無い。

人がいろんな理由から「スイッチを切って充電したい」と思った時、国による公的な保障は確かにあるけれど、それはそれでいろいろと面倒くさいし決心が要る。無料キャンプ場のような場所もなんだか落ち着かない。自分で土地を買うのも問題が山積している。

イメージとしては、タイで行った瞑想寺(あるいは千葉の瞑想センター)のようなもの。静かな山間部にあって、お寺を中心にバンガローが囲んでおり、さらにそのまわりに畑や果樹園が広がっている。

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もちろん瞑想寺は多額の寄付や助成金によって成り立っているのであって、こっちの場合は土地とお金がどこから湧いてくるかは知らない。超劣化版なら大したお金はかけずにできそうな気もするが。

というか、似たようなものは既にいくらでも存在していると思うのだが。ただ、やはりそのコミュニティに「よろしくお願いします、自分はこういうことができます」と言って入っていかなければならないケースが多いような気がする。

こういう場所を誰かのために作りたいというのではなく、誰が欲しいって、僕が欲しい。





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「小屋暮らし」と「Bライフ」の関係  


「Bライフ」という言葉には一応の責任があると思っています。

他人に対する責任ではありません。他人の人生なんて知ったこっちゃありません。他人は他人でそれぞれの動機と文脈に基づいて生活しています。他人に対して責任があると思うのは傲慢です。

そうではなくて、言葉、概念に対する責任です。

僕が「Bライフ」と称しているライフスタイルは基本的には私的なものであり、誰一人として同じ人間がいない以上、一般性を考え始めればキリがありません。

ただ、それでも生活形式として切り取れる部分はあると思っていて、その核となっている原点は「自分の土地さえあれば」という思いです。僕は27才の頃、いろいろな理由から強くこのように思いました。

上物はテントでも段ボールハウスでもなんでもいいんです。肝心なのは自分の所有している土地があって、自分の住所があるということ。

僕はこんな立派な小屋を建てるつもりはありませんでした。僕がたまに「小屋セレブ」と言っているのは冗談でも何でもありません。「小屋暮らし」というのはBライフの貴族階級のようなものです。

「土地なんて誰のものでもないんだ」というラディカルな主張はありますが、これは実際「言うだけなら簡単」の類の空論であって、実践的には役に立つものではありません。

ですから「Bライフ」は、それよりもう少しだけ上の、ギリギリ社会の枠組みの範囲内の順法的な中で、素人がハンドメイドでなんとかそれらしいものを作る、ある程度脱社会化された自由な暮らし、そのあたり一帯を示す言葉ということになると思います。

ではどこまでがBライフか、何をやったらBライフじゃないのか、という境界線はあまり意味がありませんし、土地を借りたらBライフではないなどと、定義を厳密にする理由もありません。

言葉を使う使わないというのは特定の個人が決めることではないと承知の上ですが、僕個人としては、言葉としての「Bライフ」は、「土地さえあれば」という根本の思いに共感してくれる人がいれば使ってもらえれば嬉しいという気持ちです。

少なくとも、一般向けのメディアには「Bライフ」は適切な言葉ではなく、一般社会に向けて言葉を発するときには「小屋暮らし」がニュートラルでいいような気がします。





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