寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

簡単な自己紹介2 問いの在り処  


・人生の内部の問題、外部の問題

人生の幸福や快を如何にして増やし、不幸や不快を如何にして避け、如何にして善く生きることができるか。これは人生の内部の問題です。私自身はこの問題に関して全く不得手であり、実際にうまくいっていませんし、うまくいく方法も皆目見当がつきません。

人生の内部の問題に回収することのできない問題が二つあります。一つは真理の問題です。人間とは何か。宇宙とは何か。何が原理で何が表層か。何が究極的に存在すると言えるのか。物質なのか、生命なのか、意識なのか、数理や神なのか。複数の存在物があるとすれば、それらは互いにどう関係しているのか。どこまでが私の認識というフィルターを通した世界で、フィルターを通さない世界はどうなっているのか。これらは私の人生の善し悪しとは関係がありません。つまり、人生の外部の問題です。

いま一つは死の問題です。私の人生の内容が如何なるものであっても、善いものであっても悪いものであっても、それがやがて終わってしまうという問題です。人生の外部に視点を置き、人生の全体を眺望するところからこの問題が生じます。これも端的に、人生の外部の問題です。


・死とは何かという問題

私は、私自身がいつか死ぬと信じています。私にとって死とは「永遠の無」であり、それがいつか必ず訪れると信じています(参照:前回の投稿、死について)。

私にとって死は問題ですが、その問題は大きく二つの要素に分けられます。「死とは何か」という真理についての問題と、死を前提とした生き方についての問題です。

一つ目の問題意識は、死とは何であるか、特に「永遠の無」という死の描像の是非についてです。この描像が正確には何を意味しているのか、矛盾のない描像かどうか、正しいのか否かという、真理の問題です。「無」と言いながら「永遠」という時間性を含んでいます。一体誰にとっての永遠なのでしょうか。それとも、「永遠」とは「無限の時間」ではなく「無時間性」のことでしょうか。「無」というのは、正確には何が「無い」状態なのでしょうか。肉体でしょうか、意識でしょうか、自我でしょうか、魂でしょうか、自由でしょうか、それとも他の何かでしょうか。

また、私は「永遠の無」という描像を自分一人で得たと記憶しています。しかし、それは正しいのでしょうか。「永遠の無」という描像は、現代日本ではある程度賛同を得られるかもしれませんが、世界的に、あるいは歴史的に見れば、常識でもなければ多数派であるとも言い難いです。だとすれば、もしかしたら私は、死が「永遠の無」であると思いつきやすいような世界観を他人や環境から陰に陽に植え付けられていたのかもしれません。たとえば、「内」と「外」の分離、つまり「私の意識世界」と「私がいなくても永遠に存続する客観的物質的世界」の分離は、普遍的ではないかもしません。こうした私自身の世界観の個人史を紐解いていく必要があります。

私はこの手の問い立てによって、死という概念を解体してしまったり、死は錯覚であり実は死なないのではないかという結論に至ったりすることを、多少は望んでいます。しかしながら、あまり期待はしていません。古今東西の哲学を芋蔓式に引きずり出した挙句、徒労に終わるのではという予感のほうがずっと強いです。それほどに、私にとって「永遠の無」という描像は堅固なものです。


・死を前提とした生き方の問題

いま一つの問題意識は、死を前提とした生き方についてです。死が「永遠の無」であるということをひとまず認めたうえで、そのことをどう評価し、どのように生きて行ったらいいのかという、価値や生き方の問題です。

「死を前提とした生き方」という問いは、最初から矛盾しています。なんとなれば、ある生き方よりも別の生き方を選ぶためには、あるいは、複数の生き方の間で優劣をつけるためには、予め何らかの価値体系が必要であるのに対し、「死を前提とする」ということは、そうした一切の価値体系を拒否することだからです。人生の背後には何もありませんから、人生の内容が価値の高いものであったか低いものであったかということは、もはや選択の基準になりません。

たとえば、「やがて死ぬことを前提に、今を精一杯生きよう。生きている間にできることをやろう」という考え方は至極自然に聞こえますが、これは既に、人生の中の幸福、快楽、社会や人類への貢献といったものの総計を多くしたほうが良い、という価値体系を受け容れています。しかし、幸福な者も不幸な者もやがて死んで永遠の無に足を踏み入れるということが問題の出発点であったはずで、「なるべく幸福になりましょう」という答えは、問いが生じる以前の状態まで退いてしまうことになります。

あるいは、「やがて死ぬことを前提にすると、生き方に正解はなくなる。だから自由に生きたらいい」という考え方も至極自然に聞こえますが、「自由に生きる」とは「ああしたい、こうしたい」という意志があることを前提としていて、そうした意志は大抵、人生の内部の幸福を高めることに向かいますから、やはり再び、幸福な者も不幸な者も死んでしまうという出発点に引き戻される運命にあります。

このように、「死を前提とした生き方」については、死の問題を完全に解決するような生き方は最初からありえないという難しさがあります。しかし、「死を前提とした生き方」は、「生き方によって死の問題を解決する」のではなく、「死の問題を前提に、何はともあれ生きてゆく」としたとき、私はそれには答えがありうると思います。


・答えのある問い

私は死に対して「恐怖」「不安」「虚無」という感情を抱いています(参照:前回の投稿、死について)。つまり「良くないこと」「できれば避けたいこと」として負の価値を与えています。死そのものは未来の話ですが、「恐怖」「不安」「虚無」という負の評価、負の感情が問題を現在化し、生き方に関する問いを、今この瞬間に問われるべきものにしています。

世の中には、死に対して「救済」「安らぎ」といった正の価値を与え、寧ろ「死ぬことができないことこそ苦痛」「どうして死んではいけないのか」といった類の問題意識を持つ人もいます。そうでなくとも、単に死そのものに対して然したる感情も持たない人、死ぬ瞬間は怖いがその後のことは嫌でもなければ気にもならない、という人も多くいます。その差異が、死の描像の差異に起因する場合もありますが、「永遠の無」という描像において一致していてもなお、こうした感情や価値付けに差異が生まれることがあるのはなぜでしょうか。

「恐怖」の感情については、とりあえず解決の糸口を見出せません。私にとって「永遠の無」と「恐怖」はあまりにも直接的に結びついています。より正確に言うならば、恐怖の対象は「無」であることよりも、むしろ「永遠性」です。意識が無くなることはかまいません。人から忘れられてもかまいません。それが百年続いても、一億年続いても平気です。ただ、永遠性、つまり二度と戻ってこないこと、このことだけはどうしても怖ろしい。世の中には、永遠の無を想像してもなお恐怖の念を抱かない人がいて、むしろそちらのほうが多数派ですらあるようです。他人との意見の相違や価値観の違いは、紐解いてゆけば大抵同じ地平に辿り着くものですが、私には「死が怖くない」という人の考えていることが全くわかりません。

さてしかし、「不安」と「虚無」については解決の可能性があると思っています。

一般に、「恐怖」の感情はその対象が明確ですが、「不安」の感情はその対象が不明確です。私は死そのものに対して「不安」を感じません。私にとって死とは「永遠の無」であり、そこに不明確さはないからです。私が死に関して不安を抱く理由は二つ。ひとつは、実際にいつ死が訪れるかわからないという不明確さに対して不安を感じます。そしてもうひとつ、死を直視することで狂気に至るかもしれないという不安を常に感じています。

また、私は死そのものに対して「虚無」を感じません。私が「虚無」を感じるのは、やがて無に帰すべき短い人生の重い歩みを進める時です。一般に、「虚しさ」の感情は、何か為そうとしていること(あるいは為されたこと)が無意味であると知っているときに湧き起こる感情です。その最たるものが人生そのものです。生きつつある実存的自己と、生きているということを知っている、すなわち死を知っている超越的自己との矛盾から虚無が生じます。そのどちらか一方、完全な実存的存在、あるいは、完全な超越的存在においては、虚無は生じません。

つまり、「不安」も「虚無」も、死を前提とした生に対する感情です。「生きる」ことが妨害されることに対する感情です。したがって、とりあえず普通に生きてゆくことさえできれば、一応の解を得たことになります。


・問題意識の遷移

私は長い間、自分の人生を差し置いて真理を希求したことはありませんでした。真理探究それ自体によって満たされていたことはありませんでした。学生の頃、何か一つでも誰も知らない真理が欲しいと思ったことはありますが、それはそうすれば矜持を持って強く生きてゆけると思ったからに過ぎず、あくまで「生きてゆく」という人生物語が先にありました。仮に自分が学問や研究の道で食っていたとしても、それはただ単に生きてゆくための手段としてのそれで、それはつまり生きる才能であって、真理探求の才能では無かったはずです。

また私は、「生き方」などというものを真剣に考えたこともありませんでした。一般論としての生き方を比較検討して、善し悪しや優劣を云々することほど無益なことはありません。何はともあれ、自分が生きられるように生きるしかないです。

「真理」や「生き方」を真剣に問うようになったのは、2015年の晩秋、死の観念と共に不安と虚無が大きく膨らみ、日常生活を害するようになってからです。それまでもずっと、死は自分にとって問題でしたが、今思えば、それでも幾ばくかの余裕があったのだと思います。

最初は不安が強く、「死とは何であるか、真理を見極めたい」と思っていました。しかし、不安になり、考え、さらに不安になり、さらに考えを繰り返しているうちに、おそらく体が守ってくれたのだと思いますが、あまり考えることができないようになり、不安が少し和らいだ分、今度は虚無と抑鬱症状が強まりました。そうして、何はともあれ普通に、安穏に生きてゆく方法を考えなければと、「死を前提とした生き方」の問題へと遷移してゆきました。


・普通に生きてゆくために

私が今、人生について望むものは、安穏です。考えたり、書いたり、読んだりすることが安穏を遠ざけているのであれば、直ちにやめてもよいと思います。真面目に生きることが安穏をもたらすなら真面目に生きるし、不真面目に生きることが安穏をもたらすなら不真面目に生きようと思います。孤独に生きることが安穏をもたらすなら孤独に生きるし、人と共に生きることが安穏をもたらすなら人と共に生きようと思います。

安穏、つまり、心穏やかに生きること、あるいは、幸福に生きること、そして、救われること、こうしたものは私が気丈であった長い間、ずっと卑下し続けてきたものです。生きること自体が第一目的になってしまうと、物事を正しく見る目が損なわれるからです。「どのような世界だったとすれば、安穏に、幸福に生きられるか」という色眼鏡をかけて世界を眺めることになります。生と死を包含したこの世界全体がどうなっているのか、何が真で、何がまやかしか、見極めるということをしなくなります。真理よりも幸福が勝り、幸福を損ねるような真理の領域には踏み込まなくなります。

「安穏に生きること」「普通に生きること」は一見、死の問題が冒頭で述べた「人生の内部の問題」に回収されてしまったかのようですが、事態はそんなに単純ではありません。もとより、真理に裏打ちされていない安穏は脆い。世界に対する正しい認識なしに、生き方を考えることなど不可能です。そして、その真理の根幹には、やがて死ぬのだという不動の確信があります。この先、死を無視して、死について全く考えずに、いわばそれは無いものとして生きてゆくことはできません。そうして、「いつか死んでしまう、どう生きていったらいいのか」(生き方)と「どう生きても、いつか死んでしまう」(真理)の往復運動の中で、問いはある一点に向かってだんだんと収斂してゆきます。死を免れることはおろか、完全に死を忘れたり、死について完全に解決したりすることはできないけれども、その中途半端な宙ぶらりんの状態で、それでも安穏に生きてゆくには、どうしたらいいのか。

第一感、考えるべきことは少なくありません。世の中には、正気を保って生きている(ように見える)人たちがたくさんいます。それらの人たちは、何によってその生を支えられているのか。それらの人たちにあって自分に足りないものは何か。論理的思考や感覚的思考か、普通の意味での幸せか、他人との関わり方か、善き人間性か。ここに、他人に対する興味も発生します。死について考えない人との違いは何なのか。あるいは、死について考えても立派に生き抜いている人とどう違うのか。誰もが原理的に持っている虚無や狂気の根に栄養を与えないためには、あるいはバランスを取って生きてゆくためには、どうしたらいいのか。本来、死の問題というのは、生の内容ではなく生の非存在について語るものですから、私の人格や生き方とは何の関係もありません。しかし、死の問題そのものではなく、「死を前提に、どうやったら普通に生きてゆけるか」という問題については、自分の人格や生き方と大いに関係があるように思います。




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