寝太郎ブログ

人生の余裕  


実に簡単なことで、気持ちが落ちてしまうものだなと。

新しい小屋は生活環境も含め大体整ってきた。しかし、部屋を暖める方法が思っていたより難しく、適当にやれば命にかかわる。それで、ブログやYouTubeで温水暖房や外気導入の方法、小型の薪ストーブなどあれやこれや調べていたのだが、突然、「いやいや、こういうことがしたいんじゃない」という思いが鎌首をもたげてくる。複雑なことはしたくない。物はなるべく作りたくない。調べたくもない、学びたくもない。本当は今頃、ちゃっちゃと小屋を建てて、薪ストーブだけ設えて、自分の身体を包むような2畳の小屋で静かに過ごしているはずだった。

自分はだいたい、インターネットで調べものをするのがあまり好きではない。集合知の中から正解を探し出す作業が好きではない。「最も賢い方法」を探しているわけではないのだ。むかし家の庭で段ボールハウスを作っていた時のように、自分の思い付きで、適当にやりたい。それ以上のことは、失敗してから考えたい。いわば、僕は小屋において、安心して愚か者でいたいのだ。

そういうやり方しかできないので、今回のように、いざ「命にかかわること」に取り組もうとすると突然思考停止状態に陥ってしまう。思い付きでは駄目なのだ。失敗が許されない。なんでも適当にやる僕が苦手なことは、「命にかかわること」と「他人に迷惑をかけるかもしれないこと」である。だから、誰もいない山の中で好き勝手やるのが一番性に合っているし、他人の畑を借りたのは失敗だった。

さらに。YouTubeを見ていると、いろんなものを作ったり、嬉々として説明したり、エコやDIYで盛り上がっている動画の背後に、「人生の余裕」が映る。ああ、こういう余裕のある人たちがやることなのだ、と。僕にはない。人生の余裕なんて、これっぽっちもない。あれをやっていないとか、これをやらなければとかいうことではなく、人生は端的に、狭く、息が詰まる。自分の人生には余裕というより、呆けたような空白の時間があって、そして思い出したように不安と焦燥感に襲われる。

前に、ライフスタイルのマイノリティの「けれども」について書いた。マイノリティは、「立派な家に住んで、たくさんの物に囲まれて、という生活ではないけれども」の「けれども」の部分で、「あれもない、これもない、自分には何もないけれど、毎日明るい気持ちで、穏やかに、のほほんとやっています」みたいな「人生の余裕」が主張されると相場が決まっている。それがなければ、マイノリティとしてすら受け入れられないのだ。

僕は小屋が、「生の物語」に還元しようのない人格、世間では居場所のない人格の救済の場となればいいなと思っている。しかし、小屋のようなライフスタイルにおいてすら、最終的には判で押したような物語、判で押したような人格を以てしか受け入れられないのだろう。だから、物語の欠如を伝えるためであっても、物語の仮面を被らなければならないのだと思う。




category: ライフスタイル

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