2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン
どうやって生きていったらいいのか 
2014/04/01 Tue. 23:52
今日はあまり気が乗らなかったが、カラッとしてとても良い天気だったので作業着に着替えてリヤカーで薪を集めたりなどしていたら一日が過ぎた。この時期そこらじゅうからチェーンソーの音が聞こえてきて、訪ねてゆくとだいたいボヤなら持って行ってよいということになる。
ボヤと言っても結構太いのもあって、小屋には十分すぎるほど。やっていることは乞食と言えば乞食である。他人が必要なものまでもらうわけではないから、乞食というよりは微生物という感じか。
そういう作業が楽しいかといえば、全然楽しくない。では何が楽しいのか、将来的にどうありたいのかと考えると、何一つ思い浮かばない。少し前まではちょっとしたくだらない趣味みたいなものもあったが、それももうほとんど食指が動かない。
人の役に立ちたいという気持ちもない。あるとすれば、とても偶然的な仕方で、たとえばガソリンスタンドの無い山道を偶然通りかかって誰かがガス欠で立ち往生していてガソリンを分けてやるとか、そんなことがあれば素敵だなとは思う。
死ぬまでには博士号を取りたいなと思っていて、気が向いたときに少しずつやってる。特別な理由は無くて、一応積み重ねてきたことだからという以外のなんでもない。何か機会があればまた研究生活もいいかもしれないと思うが、それで就職してバリバリやっていくという感じではない。
最近みる夢の半分は昔の夢で、もう半分は自分の死についての夢。しかし、歯を食いしばって死の夢をみていた頃よりは、どちらかというと昔の夢の比率が大きくなってきた気がする。頭が緩んできたということかもしれない。
昔の何か具体的な状況が恋しいとか懐かしいということではない。ただ、時間の流れや現在性というものをどこかで身体が欲していて、それらを夢の中でしか味わえないから、そうした夢をみるのだ。
小さい頃に思い描いていたのは、畑があって、犬がいて、山羊がいて、小さな家があって、そういう生活なのだが、それは結局、時間の流れというものがそのまま続いていって欲しいという願望であって、その肝心のものが失われてしまった以上、畑や犬という外形だけを求めても虚しいだけだろうと思う。
一たびそうなってしまうと、現在性というものは、求めれば求めるほど得られなくなってしまう。というのも、「意図的に求める」という在り方と、自然な時間の流れというものは、原理的に対立するものだからだ。
何も今に始まったことではなくて、物心ついた頃からそうだった。それでも子供が持っている自由の泉からは、死の観念に屈しないくらいに「時間」が湧き出てくるものだ。しかし、それを過ぎれば残るのは喪失感だけである。
時間の流れが無くなれば、感動や、心地良い普通の意味での喪失感なども無くなる。たとえば、夏の終わりに感じる感傷を二度と味わえないのではないかと恐ろしくなったりする。
この状況が間違っていると思えば、その反動が未来に対するエネルギーへと変わるのかもしれないが、実際は全く逆で、時間の流れや現在性が失われるということは、全く正しいことだという確信がある。というのも、それらのことが、自分の死や存在の消滅という観念、あるいはそれらから来る物事に対する俯瞰的な姿勢と強く繋がっているからだ。
現在性の喪失は、正しい。その上で、どうやって生きていったらいいのか、ということ。
小屋にいると、現在性が無いという状況をそのまま受け入れることができる。この小屋の半分は死の観念や喪失感のようなものでできている。そんなだから、自分はたとえばスモールハウスやライフスタイルに関して何か言えるような人間ではないことはわかっている。
思ったことをダイレクトにブログに書いたりするのが一番自分に合っていると思う。「この小屋の半分は死の観念でできている」なんて言っても誰も聞いてくれないが、ブログなら書ける。
あぁそういえば、ブログを書くのは結構楽しみにしている。
だらだらと長くなったが、まとまりの無いままに。
ボヤと言っても結構太いのもあって、小屋には十分すぎるほど。やっていることは乞食と言えば乞食である。他人が必要なものまでもらうわけではないから、乞食というよりは微生物という感じか。
そういう作業が楽しいかといえば、全然楽しくない。では何が楽しいのか、将来的にどうありたいのかと考えると、何一つ思い浮かばない。少し前まではちょっとしたくだらない趣味みたいなものもあったが、それももうほとんど食指が動かない。
人の役に立ちたいという気持ちもない。あるとすれば、とても偶然的な仕方で、たとえばガソリンスタンドの無い山道を偶然通りかかって誰かがガス欠で立ち往生していてガソリンを分けてやるとか、そんなことがあれば素敵だなとは思う。
死ぬまでには博士号を取りたいなと思っていて、気が向いたときに少しずつやってる。特別な理由は無くて、一応積み重ねてきたことだからという以外のなんでもない。何か機会があればまた研究生活もいいかもしれないと思うが、それで就職してバリバリやっていくという感じではない。
最近みる夢の半分は昔の夢で、もう半分は自分の死についての夢。しかし、歯を食いしばって死の夢をみていた頃よりは、どちらかというと昔の夢の比率が大きくなってきた気がする。頭が緩んできたということかもしれない。
昔の何か具体的な状況が恋しいとか懐かしいということではない。ただ、時間の流れや現在性というものをどこかで身体が欲していて、それらを夢の中でしか味わえないから、そうした夢をみるのだ。
小さい頃に思い描いていたのは、畑があって、犬がいて、山羊がいて、小さな家があって、そういう生活なのだが、それは結局、時間の流れというものがそのまま続いていって欲しいという願望であって、その肝心のものが失われてしまった以上、畑や犬という外形だけを求めても虚しいだけだろうと思う。
一たびそうなってしまうと、現在性というものは、求めれば求めるほど得られなくなってしまう。というのも、「意図的に求める」という在り方と、自然な時間の流れというものは、原理的に対立するものだからだ。
何も今に始まったことではなくて、物心ついた頃からそうだった。それでも子供が持っている自由の泉からは、死の観念に屈しないくらいに「時間」が湧き出てくるものだ。しかし、それを過ぎれば残るのは喪失感だけである。
時間の流れが無くなれば、感動や、心地良い普通の意味での喪失感なども無くなる。たとえば、夏の終わりに感じる感傷を二度と味わえないのではないかと恐ろしくなったりする。
この状況が間違っていると思えば、その反動が未来に対するエネルギーへと変わるのかもしれないが、実際は全く逆で、時間の流れや現在性が失われるということは、全く正しいことだという確信がある。というのも、それらのことが、自分の死や存在の消滅という観念、あるいはそれらから来る物事に対する俯瞰的な姿勢と強く繋がっているからだ。
現在性の喪失は、正しい。その上で、どうやって生きていったらいいのか、ということ。
小屋にいると、現在性が無いという状況をそのまま受け入れることができる。この小屋の半分は死の観念や喪失感のようなものでできている。そんなだから、自分はたとえばスモールハウスやライフスタイルに関して何か言えるような人間ではないことはわかっている。
思ったことをダイレクトにブログに書いたりするのが一番自分に合っていると思う。「この小屋の半分は死の観念でできている」なんて言っても誰も聞いてくれないが、ブログなら書ける。
あぁそういえば、ブログを書くのは結構楽しみにしている。
だらだらと長くなったが、まとまりの無いままに。
category: 彼岸
cm: --
| h o m e |