寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

簡単な自己紹介  


・宇宙と時間について

私は、宇宙(物の世界)が、自分の意識や認識とは独立に存在していると信じています。また、その宇宙には、自分の意識や認識とは独立に時間が流れていると信じています。そうした「意識の外にある世界(外的世界)」としての宇宙は、常に意識の内部に留らざるを得ない自分には確かめようのない存在です。しかし、自分の素朴な信念を反省したとき、やはり「外的世界は自分とは独立に存在する」という前提で物事を考え、行動しているように思います。

仮に宇宙が存在するとして、それらの「物」や「時間」は、五感や想起・予期といった認識や意識の作用を通してしか知りえないため、自分の認識以前の「真の姿」は自分にはわかりません。しかし、再び自分の素朴な信念を反省してみれば、「物」に関しては、たとえば私の目に赤色に映るリンゴは、私や私以外の意識存在の認識以前には単なる電磁波を反射している物体であり、赤色をしていないと信じています。物理的な世界は無色無臭の世界であって、生命の意識にはそれが「赤」や「青」に映る、というわけです。味覚、聴覚、臭覚に関しても同様です。触覚は少し微妙なところがありますが、物が当たる感覚、圧力がかかる感覚、押し返される感覚、などは意識由来のものであり、「物が空間を占めている」こと自体とは違うだろうと思います。

一方、「時間」に関しては、私が過ぎ去った過去を想起したり、未来を想像したりするとしないとにかかわらず、つまり私の意識が時間を「感じるか否か」にかかわらず、普段認識しているような「時間の流れ」が全くそのまま客観的に存在していると信じています。唯一絶対の「現在」というものが客観的に存在して、それが刻一刻と移り変わるという仕方で「時間が流れ」ており、私はそれをそのまま認識しているだけだと信じています。つまり、私がいなくなっても(あるいは生命がいなくなっても)、時間は流れ続ける、ということです。なお、宇宙が時間空間的に無限であるか有限であるかは、わかりません。どちらだとしても自分の理解を超えています。

・存在と神秘について

私がこの世界で最も不思議だと思うことは、「存在」です。この世界で何が本当に「在る」と言えるのかは分かりませんが、物質であろうと、時間であろうと、意識であろうと、観念であろうと、物理法則であろうと、何も無いのではなく、何かが在ること。この世界が無ではないこと。最初は無であったのにある瞬間に何かが存在し始めたとしても不思議ですし、最初から存在していたとしても不思議ですし、そうした「発端の不思議さ」を除いても、今この瞬間に無ではなく何かがあることがとても不思議です。

この不思議さは「日蝕が不思議」というのとはわけが違います。日蝕の不思議にはカラクリがあります。存在の不思議にはカラクリがありません。何も隠されておらず、全てが白日の下に晒されていて、そうであるがゆえに一層不思議です。そうした不思議を「神秘」と呼ぶとします。神秘は、私自身ないしは人類の知恵の不足によるものではなく、人類の知能がこの先どれだけ進もうと、原理的に解決されえない不思議です。

・生命と意識について

さてしかし、この「存在の神秘」はあまりに不思議すぎて、圧倒されるばかりで手を付けようがありません。そこで、ほんの少しだけ問いを易しくします。存在して然るべきものを仮定し、思考の出発点とします。自分自身の素朴な信念を反省するなら、それは「宇宙」です。とりあえず「物」や「時間」は然るべくして存在するとします。そうして「まず最初に宇宙ありき」と考えたときに、私の目に不思議として映るのは、生命の存在と、意識の存在です。

生命と非生命との線引きは簡単ではありませんが、代謝して自己保存し、生殖して遺伝子を残そうとする、生物学的な、ないしは、生理学的な意味での生命が、物理世界に存在することは不思議です。たとえ生命の身体が物質によってできているとしても、私は生命が物理学・化学に還元されてしまうとは思いません。生命の誕生時に物理的に言って何が生じたのか解明されたとしても、それを生じせしめたことそのものが物理学に還元されることはないように思います。また、この生命現象全体がなぜ、なんのために存在するのか、その意味も「最初に宇宙ありき」という観点からは全く不明です。

さらに不思議なのが、意識の存在です。生命の不思議と意識の不思議は、とりあえず区別されなければならないと思います。なんとなれば、今現にあるのと全く同様に宇宙も生命現象もあったとして、つまり地球も人間もいたとして、そこに意識が無かった可能性は容易に想像できるからです。今現にあるのと同じように、人間が、リンゴによって跳ね返される電磁波を情報処理し、それに基づいて行動し、物を食べ、社会を形成し、命を繋いでいたとしても、そこに意識が伴っている(つまりリンゴが「見えて」いる)必然性はありません。意識の無い世界から意識が誕生したのは不思議ですし、この意識がなんのために存在しているのかもやはり不明です。

これら二つの不思議も、やはり神秘であると思います。ここで、もう一つの不思議は、「生命の神秘」と「意識の神秘」がどうやら同じところで生じているらしいということです。意識は、岩石や惑星ではなく、どういうわけか生命に伴っているように思われます。これが偶然であると考えるのは無理があります。だから、何か同一の原因によって生命と意識が誕生した(もしくは最初から在った)のだろうと考えたほうが自然です。そういうわけで、私は動植物の全てに意識の片鱗があると考える傾向にあります。だからと言って、木が自分を見ているとか、木が伐られて痛いとか、そういう単純な擬人は当たらないと思いますが、一種のアニミズムを支持しています。

・死について

私は、私自身がいつか死ぬと信じています。私にとって「死」とは、永遠の無です。無は、今現に存在している状態から捉えるなら、存在消滅と言ってもいいし、意識の非存在と言ってもいいです。私にとって生命や意識はとても不思議なもので、物理現象としての肉体に生命や意識が偶然的に付随しているだけだとは思えないので、肉体が滅びれば何もかも終わりかどうかはよくわかりません。けれども、「この私の意識」が残るような仕方で何らかの死後生があるとは信じていません。

私が最初に死に関してこのような描像を抱いたのは、小学校に入って間もない頃です。突如、数百年でも数億年でもない、二度と戻ってこない「永遠性」というものをリアルに思い描きました。私は至って健康であったし、私の周囲の人間もまた健在でした。私の生まれた時代は控えめに言っても平和で、命の危険を身近に感じるようなことはありませんでした。何より私は幸福で、満たされており、自分自身の生や現世を忌み嫌う理由は何一つありませんでした。つまり、何の契機も、何の文脈もなく、私の思考の中に突如、「いつか自分の存在は消滅して、永遠に戻ってこない」という考えが降ってきました。このことは端的に、私の抱く死についての問題が、少なくとも第一義的には、自身の病苦や、近親者の死や、時代の混沌や、あるいは自己否定感情などといったような私自身の人生の内部の問題には起因していないことを意味しています。以来、今日に至るまで、私の死の描像は寸分も変わっていません。死とは、「永遠の無」です。

私は死に対して「恐怖」と「不安」と「虚無」という感情を抱いています。一般に、「恐怖」の感情は対象が明確であるのに対し、「不安」の感情は対象が不明確です。私が「不安」を抱くのは、死そのものに対してというよりも、「実際にいつ死が訪れるかわからない」という不明確さに対してです。また、「虚無」の感情も、死そのものに対してというよりも、「やがて死んでしまう」という大きな暗闇を背後に抱えつつ、人生のあれやこれやのことをしなければならないということに対してで、つまり死を前提にした生に対する感情です。そういうわけで、私が正確に「死そのもの」に対して抱く感情は「恐怖」のみであると言えます。

・他人と孤独について

私は、他人にも意識があると信じています。自分の意識の内部に留まらざるを得ない以上、他人に意識があることを確認することはできません。しかし、私にとって重要なのは、私が物心ついたときに既に素朴に「他人に意識がある」と信じていたという事実です。この事実は、この世界に複数の意識があるということよりも、ずっと不思議です。なんとなれば、生まれて此の方、私は私自身の意識しか直接的に観察(内観)したことはないのに、また、学校の教科書に「他人にも意識があります」と書いてあったわけではないのに、他人にも意識があると自然に考えるに至ったからです。そして、私の見聞によれば、誰もが同様に、他人に意識があると素朴に信じているようです。そういう意味で、私自身も含め、本当の意味での独我論者(この世界には自分の意識しか存在しないと信じている人)はいません。

私は、ただ単に他人に意識があると信じているだけではなく、その意識内容も、自分と同じだと信じています。たとえば、リンゴの色です。私がリンゴを見たとき、私の意識には「赤の感じ」(クオリア、感覚質とも言います)が映ります。しかし、同じリンゴを他人が見たときには、他人の意識には「青(と私が呼んでいる色)の感じ」が映っていて、それをその人は「赤」と呼んでいるだけかもしれません。その人には、夕焼けや炎が青色(と私が呼んでいる色)に見えていて、その人は常に青色(と私が呼んでいる色)から温かみを感じる、というわけです。そうした可能性があるにも関わらず、それは後々になって湧いてきた懐疑であって、物心ついたときには素朴に「他人も自分と同じ意識内容を持っている」と信じていました。今もそう信じています。

他人の意識と自分の意識が独立しているという単純な事実は、私を孤独にさせます。他人が感じている痛みを自分が感じることはできません。逆も然りです。けれども、その一方で、「他人にも意識がある」「他人の意識内容も自分と同じである」と素朴に信じていることが、私には自分の意識と他人の意識とがとても深いところで繋がっている証拠であるように思え、また、そう素朴に信じている限りにおいて、私は孤独になりきることは不可能だとも思います。

・自由について

「自由がある」と感じるのは単なる錯覚であるという人もいますが、私は自分には自由があると思っています。たとえば、右手を挙げる自由です。しかし私にはその「自由」の正体があまりよくわかっていません。私の自由はいつ発動したのか。右手を挙げようと意志したときか、それとも実際に右手を挙げたときか。もし「意志する自由」だとしたら、意志することを意志したことになり、これは無限後退に陥りそうです。もし「意志に従って肉体的ないしは精神的な行動をする自由」だとしたら、意志すること自体が自由でない限り、結局自分の行動も自由ではないことになります。

「最初に宇宙ありき」とすれば、「自由」も不思議な存在です。自由もまた、神秘です。私は自由を端的に知っているのであり、そこには何も隠されていません。しかし、その「端的さ」ゆえに、より一層理解を拒みます。宇宙には自由はありません。ニュートン力学にも量子力学にも相対性理論にも自由はありません。命あるもののみに自由があります。自由も、意識と同様に、岩石や惑星ではなく、どういうわけか生命に伴っているように思われます。やはりこれも偶然とは思えず、何か同一の原因によって生命と共に誕生した(もしくは最初から在った)のだろうと思います。再び、私は動植物の全てに自由の片鱗があると考える傾向にあります。だからと言って、木が枝を動かせるとか、そういうことではありませんが。

・宗教と神について

「非合理的」という烙印の下に宗教を一刀両断してしまうのは簡単ですが、一筋縄ではいかない面もあります。第一に、この世界には合理性や科学によってはわからないことがたくさんあり、まさにその部分こそが自分の関心の対象だからです。第二に、私自身も非合理性ないしは「信じること」と無縁ではないからです。第三に、そもそも合理性と非合理性の線を引くのはとても厄介です。とはいえ、物語や擬人化による世界理解、神の存在、あるいは経典や教説をそのまま信じるといった、宗教の最も原始的な部分は、論ずるに値しないと考えています。また特定の宗教が提唱する「生き方」も、部分的に見れば役に立つことはありますが、不十分ないしは想像上の世界理解に基づいている以上、その全てを鵜呑みにすべきではないと思います。

宗教を「真偽よりも信仰を優先する」ものとして考えたとき、私にとって宗教が救済になりうるか否かは、「真でない」と分かっている事柄を信じることができるか否かに依ると思います。私には「真ではないと思っていることを信じる」ということがどういうことかよくわかりません。「信じる」とはすなわち「真であると信じる」ことに他ならないと思います。

・言葉について

私は言葉を使いますが、言葉の使用が何か自分にとって重要な問題に対する考えを偏らせ、あるいは歪めていると感じたことはありません。あるいは、自分にとって重要な問題自体が、言葉の使用によって問題然としているだけの疑似問題であるとも思いません。「言葉が無ければ思考も無い」とは思いませんし、「言葉が無ければその言葉の指示対象も無い」とも思いませんし、「言語の限界が思考の限界と一致している」とも思いません。たとえば、「死」という言葉が無ければ死は無い、とは思いませんし、死という現象は言葉の空間で扱えるものではない、とも思いません。

もちろん、違う人間が同じ言葉を使う限り、意思疎通や相互理解の問題は常に生じますが、それは単なる実践的な問題であり、そのことが何か自分の世界理解を根本的に歪めているとは思いません。私にとって言葉は、言葉以前の外的対象なり内的表象なりを記号化し他者と共有するためのものです。おそらくとても常識的な言語観だと思います。




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