寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

簡単な自己紹介2 問いの在り処  


・人生の内部の問題、外部の問題

人生の幸福や快を如何にして増やし、不幸や不快を如何にして避け、如何にして善く生きることができるか。これは人生の内部の問題です。私自身はこの問題に関して全く不得手であり、実際にうまくいっていませんし、うまくいく方法も皆目見当がつきません。

人生の内部の問題に回収することのできない問題が二つあります。一つは真理の問題です。人間とは何か。宇宙とは何か。何が原理で何が表層か。何が究極的に存在すると言えるのか。物質なのか、生命なのか、意識なのか、数理や神なのか。複数の存在物があるとすれば、それらは互いにどう関係しているのか。どこまでが私の認識というフィルターを通した世界で、フィルターを通さない世界はどうなっているのか。これらは私の人生の善し悪しとは関係がありません。つまり、人生の外部の問題です。

いま一つは死の問題です。私の人生の内容が如何なるものであっても、善いものであっても悪いものであっても、それがやがて終わってしまうという問題です。人生の外部に視点を置き、人生の全体を眺望するところからこの問題が生じます。これも端的に、人生の外部の問題です。


・死とは何かという問題

私は、私自身がいつか死ぬと信じています。私にとって死とは「永遠の無」であり、それがいつか必ず訪れると信じています(参照:前回の投稿、死について)。

私にとって死は問題ですが、その問題は大きく二つの要素に分けられます。「死とは何か」という真理についての問題と、死を前提とした生き方についての問題です。

一つ目の問題意識は、死とは何であるか、特に「永遠の無」という死の描像の是非についてです。この描像が正確には何を意味しているのか、矛盾のない描像かどうか、正しいのか否かという、真理の問題です。「無」と言いながら「永遠」という時間性を含んでいます。一体誰にとっての永遠なのでしょうか。それとも、「永遠」とは「無限の時間」ではなく「無時間性」のことでしょうか。「無」というのは、正確には何が「無い」状態なのでしょうか。肉体でしょうか、意識でしょうか、自我でしょうか、魂でしょうか、自由でしょうか、それとも他の何かでしょうか。

また、私は「永遠の無」という描像を自分一人で得たと記憶しています。しかし、それは正しいのでしょうか。「永遠の無」という描像は、現代日本ではある程度賛同を得られるかもしれませんが、世界的に、あるいは歴史的に見れば、常識でもなければ多数派であるとも言い難いです。だとすれば、もしかしたら私は、死が「永遠の無」であると思いつきやすいような世界観を他人や環境から陰に陽に植え付けられていたのかもしれません。たとえば、「内」と「外」の分離、つまり「私の意識世界」と「私がいなくても永遠に存続する客観的物質的世界」の分離は、普遍的ではないかもしません。こうした私自身の世界観の個人史を紐解いていく必要があります。

私はこの手の問い立てによって、死という概念を解体してしまったり、死は錯覚であり実は死なないのではないかという結論に至ったりすることを、多少は望んでいます。しかしながら、あまり期待はしていません。古今東西の哲学を芋蔓式に引きずり出した挙句、徒労に終わるのではという予感のほうがずっと強いです。それほどに、私にとって「永遠の無」という描像は堅固なものです。


・死を前提とした生き方の問題

いま一つの問題意識は、死を前提とした生き方についてです。死が「永遠の無」であるということをひとまず認めたうえで、そのことをどう評価し、どのように生きて行ったらいいのかという、価値や生き方の問題です。

「死を前提とした生き方」という問いは、最初から矛盾しています。なんとなれば、ある生き方よりも別の生き方を選ぶためには、あるいは、複数の生き方の間で優劣をつけるためには、予め何らかの価値体系が必要であるのに対し、「死を前提とする」ということは、そうした一切の価値体系を拒否することだからです。人生の背後には何もありませんから、人生の内容が価値の高いものであったか低いものであったかということは、もはや選択の基準になりません。

たとえば、「やがて死ぬことを前提に、今を精一杯生きよう。生きている間にできることをやろう」という考え方は至極自然に聞こえますが、これは既に、人生の中の幸福、快楽、社会や人類への貢献といったものの総計を多くしたほうが良い、という価値体系を受け容れています。しかし、幸福な者も不幸な者もやがて死んで永遠の無に足を踏み入れるということが問題の出発点であったはずで、「なるべく幸福になりましょう」という答えは、問いが生じる以前の状態まで退いてしまうことになります。

あるいは、「やがて死ぬことを前提にすると、生き方に正解はなくなる。だから自由に生きたらいい」という考え方も至極自然に聞こえますが、「自由に生きる」とは「ああしたい、こうしたい」という意志があることを前提としていて、そうした意志は大抵、人生の内部の幸福を高めることに向かいますから、やはり再び、幸福な者も不幸な者も死んでしまうという出発点に引き戻される運命にあります。

このように、「死を前提とした生き方」については、死の問題を完全に解決するような生き方は最初からありえないという難しさがあります。しかし、「死を前提とした生き方」は、「生き方によって死の問題を解決する」のではなく、「死の問題を前提に、何はともあれ生きてゆく」としたとき、私はそれには答えがありうると思います。


・答えのある問い

私は死に対して「恐怖」「不安」「虚無」という感情を抱いています(参照:前回の投稿、死について)。つまり「良くないこと」「できれば避けたいこと」として負の価値を与えています。死そのものは未来の話ですが、「恐怖」「不安」「虚無」という負の評価、負の感情が問題を現在化し、生き方に関する問いを、今この瞬間に問われるべきものにしています。

世の中には、死に対して「救済」「安らぎ」といった正の価値を与え、寧ろ「死ぬことができないことこそ苦痛」「どうして死んではいけないのか」といった類の問題意識を持つ人もいます。そうでなくとも、単に死そのものに対して然したる感情も持たない人、死ぬ瞬間は怖いがその後のことは嫌でもなければ気にもならない、という人も多くいます。その差異が、死の描像の差異に起因する場合もありますが、「永遠の無」という描像において一致していてもなお、こうした感情や価値付けに差異が生まれることがあるのはなぜでしょうか。

「恐怖」の感情については、とりあえず解決の糸口を見出せません。私にとって「永遠の無」と「恐怖」はあまりにも直接的に結びついています。より正確に言うならば、恐怖の対象は「無」であることよりも、むしろ「永遠性」です。意識が無くなることはかまいません。人から忘れられてもかまいません。それが百年続いても、一億年続いても平気です。ただ、永遠性、つまり二度と戻ってこないこと、このことだけはどうしても怖ろしい。世の中には、永遠の無を想像してもなお恐怖の念を抱かない人がいて、むしろそちらのほうが多数派ですらあるようです。他人との意見の相違や価値観の違いは、紐解いてゆけば大抵同じ地平に辿り着くものですが、私には「死が怖くない」という人の考えていることが全くわかりません。

さてしかし、「不安」と「虚無」については解決の可能性があると思っています。

一般に、「恐怖」の感情はその対象が明確ですが、「不安」の感情はその対象が不明確です。私は死そのものに対して「不安」を感じません。私にとって死とは「永遠の無」であり、そこに不明確さはないからです。私が死に関して不安を抱く理由は二つ。ひとつは、実際にいつ死が訪れるかわからないという不明確さに対して不安を感じます。そしてもうひとつ、死を直視することで狂気に至るかもしれないという不安を常に感じています。

また、私は死そのものに対して「虚無」を感じません。私が「虚無」を感じるのは、やがて無に帰すべき短い人生の重い歩みを進める時です。一般に、「虚しさ」の感情は、何か為そうとしていること(あるいは為されたこと)が無意味であると知っているときに湧き起こる感情です。その最たるものが人生そのものです。生きつつある実存的自己と、生きているということを知っている、すなわち死を知っている超越的自己との矛盾から虚無が生じます。そのどちらか一方、完全な実存的存在、あるいは、完全な超越的存在においては、虚無は生じません。

つまり、「不安」も「虚無」も、死を前提とした生に対する感情です。「生きる」ことが妨害されることに対する感情です。したがって、とりあえず普通に生きてゆくことさえできれば、一応の解を得たことになります。


・問題意識の遷移

私は長い間、自分の人生を差し置いて真理を希求したことはありませんでした。真理探究それ自体によって満たされていたことはありませんでした。学生の頃、何か一つでも誰も知らない真理が欲しいと思ったことはありますが、それはそうすれば矜持を持って強く生きてゆけると思ったからに過ぎず、あくまで「生きてゆく」という人生物語が先にありました。仮に自分が学問や研究の道で食っていたとしても、それはただ単に生きてゆくための手段としてのそれで、それはつまり生きる才能であって、真理探求の才能では無かったはずです。

また私は、「生き方」などというものを真剣に考えたこともありませんでした。一般論としての生き方を比較検討して、善し悪しや優劣を云々することほど無益なことはありません。何はともあれ、自分が生きられるように生きるしかないです。

「真理」や「生き方」を真剣に問うようになったのは、2015年の晩秋、死の観念と共に不安と虚無が大きく膨らみ、日常生活を害するようになってからです。それまでもずっと、死は自分にとって問題でしたが、今思えば、それでも幾ばくかの余裕があったのだと思います。

最初は不安が強く、「死とは何であるか、真理を見極めたい」と思っていました。しかし、不安になり、考え、さらに不安になり、さらに考えを繰り返しているうちに、おそらく体が守ってくれたのだと思いますが、あまり考えることができないようになり、不安が少し和らいだ分、今度は虚無と抑鬱症状が強まりました。そうして、何はともあれ普通に、安穏に生きてゆく方法を考えなければと、「死を前提とした生き方」の問題へと遷移してゆきました。


・普通に生きてゆくために

私が今、人生について望むものは、安穏です。考えたり、書いたり、読んだりすることが安穏を遠ざけているのであれば、直ちにやめてもよいと思います。真面目に生きることが安穏をもたらすなら真面目に生きるし、不真面目に生きることが安穏をもたらすなら不真面目に生きようと思います。孤独に生きることが安穏をもたらすなら孤独に生きるし、人と共に生きることが安穏をもたらすなら人と共に生きようと思います。

安穏、つまり、心穏やかに生きること、あるいは、幸福に生きること、そして、救われること、こうしたものは私が気丈であった長い間、ずっと卑下し続けてきたものです。生きること自体が第一目的になってしまうと、物事を正しく見る目が損なわれるからです。「どのような世界だったとすれば、安穏に、幸福に生きられるか」という色眼鏡をかけて世界を眺めることになります。生と死を包含したこの世界全体がどうなっているのか、何が真で、何がまやかしか、見極めるということをしなくなります。真理よりも幸福が勝り、幸福を損ねるような真理の領域には踏み込まなくなります。

「安穏に生きること」「普通に生きること」は一見、死の問題が冒頭で述べた「人生の内部の問題」に回収されてしまったかのようですが、事態はそんなに単純ではありません。もとより、真理に裏打ちされていない安穏は脆い。世界に対する正しい認識なしに、生き方を考えることなど不可能です。そして、その真理の根幹には、やがて死ぬのだという不動の確信があります。この先、死を無視して、死について全く考えずに、いわばそれは無いものとして生きてゆくことはできません。そうして、「いつか死んでしまう、どう生きていったらいいのか」(生き方)と「どう生きても、いつか死んでしまう」(真理)の往復運動の中で、問いはある一点に向かってだんだんと収斂してゆきます。死を免れることはおろか、完全に死を忘れたり、死について完全に解決したりすることはできないけれども、その中途半端な宙ぶらりんの状態で、それでも安穏に生きてゆくには、どうしたらいいのか。

第一感、考えるべきことは少なくありません。世の中には、正気を保って生きている(ように見える)人たちがたくさんいます。それらの人たちは、何によってその生を支えられているのか。それらの人たちにあって自分に足りないものは何か。論理的思考や感覚的思考か、普通の意味での幸せか、他人との関わり方か、善き人間性か。ここに、他人に対する興味も発生します。死について考えない人との違いは何なのか。あるいは、死について考えても立派に生き抜いている人とどう違うのか。誰もが原理的に持っている虚無や狂気の根に栄養を与えないためには、あるいはバランスを取って生きてゆくためには、どうしたらいいのか。本来、死の問題というのは、生の内容ではなく生の非存在について語るものですから、私の人格や生き方とは何の関係もありません。しかし、死の問題そのものではなく、「死を前提に、どうやったら普通に生きてゆけるか」という問題については、自分の人格や生き方と大いに関係があるように思います。




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簡単な自己紹介  


・宇宙と時間について

私は、宇宙(物の世界)が、自分の意識や認識とは独立に存在していると信じています。また、その宇宙には、自分の意識や認識とは独立に時間が流れていると信じています。そうした「意識の外にある世界(外的世界)」としての宇宙は、常に意識の内部に留らざるを得ない自分には確かめようのない存在です。しかし、自分の素朴な信念を反省したとき、やはり「外的世界は自分とは独立に存在する」という前提で物事を考え、行動しているように思います。

仮に宇宙が存在するとして、それらの「物」や「時間」は、五感や想起・予期といった認識や意識の作用を通してしか知りえないため、自分の認識以前の「真の姿」は自分にはわかりません。しかし、再び自分の素朴な信念を反省してみれば、「物」に関しては、たとえば私の目に赤色に映るリンゴは、私や私以外の意識存在の認識以前には単なる電磁波を反射している物体であり、赤色をしていないと信じています。物理的な世界は無色無臭の世界であって、生命の意識にはそれが「赤」や「青」に映る、というわけです。味覚、聴覚、臭覚に関しても同様です。触覚は少し微妙なところがありますが、物が当たる感覚、圧力がかかる感覚、押し返される感覚、などは意識由来のものであり、「物が空間を占めている」こと自体とは違うだろうと思います。

一方、「時間」に関しては、私が過ぎ去った過去を想起したり、未来を想像したりするとしないとにかかわらず、つまり私の意識が時間を「感じるか否か」にかかわらず、普段認識しているような「時間の流れ」が全くそのまま客観的に存在していると信じています。唯一絶対の「現在」というものが客観的に存在して、それが刻一刻と移り変わるという仕方で「時間が流れ」ており、私はそれをそのまま認識しているだけだと信じています。つまり、私がいなくなっても(あるいは生命がいなくなっても)、時間は流れ続ける、ということです。なお、宇宙が時間空間的に無限であるか有限であるかは、わかりません。どちらだとしても自分の理解を超えています。

・存在と神秘について

私がこの世界で最も不思議だと思うことは、「存在」です。この世界で何が本当に「在る」と言えるのかは分かりませんが、物質であろうと、時間であろうと、意識であろうと、観念であろうと、物理法則であろうと、何も無いのではなく、何かが在ること。この世界が無ではないこと。最初は無であったのにある瞬間に何かが存在し始めたとしても不思議ですし、最初から存在していたとしても不思議ですし、そうした「発端の不思議さ」を除いても、今この瞬間に無ではなく何かがあることがとても不思議です。

この不思議さは「日蝕が不思議」というのとはわけが違います。日蝕の不思議にはカラクリがあります。存在の不思議にはカラクリがありません。何も隠されておらず、全てが白日の下に晒されていて、そうであるがゆえに一層不思議です。そうした不思議を「神秘」と呼ぶとします。神秘は、私自身ないしは人類の知恵の不足によるものではなく、人類の知能がこの先どれだけ進もうと、原理的に解決されえない不思議です。

・生命と意識について

さてしかし、この「存在の神秘」はあまりに不思議すぎて、圧倒されるばかりで手を付けようがありません。そこで、ほんの少しだけ問いを易しくします。存在して然るべきものを仮定し、思考の出発点とします。自分自身の素朴な信念を反省するなら、それは「宇宙」です。とりあえず「物」や「時間」は然るべくして存在するとします。そうして「まず最初に宇宙ありき」と考えたときに、私の目に不思議として映るのは、生命の存在と、意識の存在です。

生命と非生命との線引きは簡単ではありませんが、代謝して自己保存し、生殖して遺伝子を残そうとする、生物学的な、ないしは、生理学的な意味での生命が、物理世界に存在することは不思議です。たとえ生命の身体が物質によってできているとしても、私は生命が物理学・化学に還元されてしまうとは思いません。生命の誕生時に物理的に言って何が生じたのか解明されたとしても、それを生じせしめたことそのものが物理学に還元されることはないように思います。また、この生命現象全体がなぜ、なんのために存在するのか、その意味も「最初に宇宙ありき」という観点からは全く不明です。

さらに不思議なのが、意識の存在です。生命の不思議と意識の不思議は、とりあえず区別されなければならないと思います。なんとなれば、今現にあるのと全く同様に宇宙も生命現象もあったとして、つまり地球も人間もいたとして、そこに意識が無かった可能性は容易に想像できるからです。今現にあるのと同じように、人間が、リンゴによって跳ね返される電磁波を情報処理し、それに基づいて行動し、物を食べ、社会を形成し、命を繋いでいたとしても、そこに意識が伴っている(つまりリンゴが「見えて」いる)必然性はありません。意識の無い世界から意識が誕生したのは不思議ですし、この意識がなんのために存在しているのかもやはり不明です。

これら二つの不思議も、やはり神秘であると思います。ここで、もう一つの不思議は、「生命の神秘」と「意識の神秘」がどうやら同じところで生じているらしいということです。意識は、岩石や惑星ではなく、どういうわけか生命に伴っているように思われます。これが偶然であると考えるのは無理があります。だから、何か同一の原因によって生命と意識が誕生した(もしくは最初から在った)のだろうと考えたほうが自然です。そういうわけで、私は動植物の全てに意識の片鱗があると考える傾向にあります。だからと言って、木が自分を見ているとか、木が伐られて痛いとか、そういう単純な擬人は当たらないと思いますが、一種のアニミズムを支持しています。

・死について

私は、私自身がいつか死ぬと信じています。私にとって「死」とは、永遠の無です。無は、今現に存在している状態から捉えるなら、存在消滅と言ってもいいし、意識の非存在と言ってもいいです。私にとって生命や意識はとても不思議なもので、物理現象としての肉体に生命や意識が偶然的に付随しているだけだとは思えないので、肉体が滅びれば何もかも終わりかどうかはよくわかりません。けれども、「この私の意識」が残るような仕方で何らかの死後生があるとは信じていません。

私が最初に死に関してこのような描像を抱いたのは、小学校に入って間もない頃です。突如、数百年でも数億年でもない、二度と戻ってこない「永遠性」というものをリアルに思い描きました。私は至って健康であったし、私の周囲の人間もまた健在でした。私の生まれた時代は控えめに言っても平和で、命の危険を身近に感じるようなことはありませんでした。何より私は幸福で、満たされており、自分自身の生や現世を忌み嫌う理由は何一つありませんでした。つまり、何の契機も、何の文脈もなく、私の思考の中に突如、「いつか自分の存在は消滅して、永遠に戻ってこない」という考えが降ってきました。このことは端的に、私の抱く死についての問題が、少なくとも第一義的には、自身の病苦や、近親者の死や、時代の混沌や、あるいは自己否定感情などといったような私自身の人生の内部の問題には起因していないことを意味しています。以来、今日に至るまで、私の死の描像は寸分も変わっていません。死とは、「永遠の無」です。

私は死に対して「恐怖」と「不安」と「虚無」という感情を抱いています。一般に、「恐怖」の感情は対象が明確であるのに対し、「不安」の感情は対象が不明確です。私が「不安」を抱くのは、死そのものに対してというよりも、「実際にいつ死が訪れるかわからない」という不明確さに対してです。また、「虚無」の感情も、死そのものに対してというよりも、「やがて死んでしまう」という大きな暗闇を背後に抱えつつ、人生のあれやこれやのことをしなければならないということに対してで、つまり死を前提にした生に対する感情です。そういうわけで、私が正確に「死そのもの」に対して抱く感情は「恐怖」のみであると言えます。

・他人と孤独について

私は、他人にも意識があると信じています。自分の意識の内部に留まらざるを得ない以上、他人に意識があることを確認することはできません。しかし、私にとって重要なのは、私が物心ついたときに既に素朴に「他人に意識がある」と信じていたという事実です。この事実は、この世界に複数の意識があるということよりも、ずっと不思議です。なんとなれば、生まれて此の方、私は私自身の意識しか直接的に観察(内観)したことはないのに、また、学校の教科書に「他人にも意識があります」と書いてあったわけではないのに、他人にも意識があると自然に考えるに至ったからです。そして、私の見聞によれば、誰もが同様に、他人に意識があると素朴に信じているようです。そういう意味で、私自身も含め、本当の意味での独我論者(この世界には自分の意識しか存在しないと信じている人)はいません。

私は、ただ単に他人に意識があると信じているだけではなく、その意識内容も、自分と同じだと信じています。たとえば、リンゴの色です。私がリンゴを見たとき、私の意識には「赤の感じ」(クオリア、感覚質とも言います)が映ります。しかし、同じリンゴを他人が見たときには、他人の意識には「青(と私が呼んでいる色)の感じ」が映っていて、それをその人は「赤」と呼んでいるだけかもしれません。その人には、夕焼けや炎が青色(と私が呼んでいる色)に見えていて、その人は常に青色(と私が呼んでいる色)から温かみを感じる、というわけです。そうした可能性があるにも関わらず、それは後々になって湧いてきた懐疑であって、物心ついたときには素朴に「他人も自分と同じ意識内容を持っている」と信じていました。今もそう信じています。

他人の意識と自分の意識が独立しているという単純な事実は、私を孤独にさせます。他人が感じている痛みを自分が感じることはできません。逆も然りです。けれども、その一方で、「他人にも意識がある」「他人の意識内容も自分と同じである」と素朴に信じていることが、私には自分の意識と他人の意識とがとても深いところで繋がっている証拠であるように思え、また、そう素朴に信じている限りにおいて、私は孤独になりきることは不可能だとも思います。

・自由について

「自由がある」と感じるのは単なる錯覚であるという人もいますが、私は自分には自由があると思っています。たとえば、右手を挙げる自由です。しかし私にはその「自由」の正体があまりよくわかっていません。私の自由はいつ発動したのか。右手を挙げようと意志したときか、それとも実際に右手を挙げたときか。もし「意志する自由」だとしたら、意志することを意志したことになり、これは無限後退に陥りそうです。もし「意志に従って肉体的ないしは精神的な行動をする自由」だとしたら、意志すること自体が自由でない限り、結局自分の行動も自由ではないことになります。

「最初に宇宙ありき」とすれば、「自由」も不思議な存在です。自由もまた、神秘です。私は自由を端的に知っているのであり、そこには何も隠されていません。しかし、その「端的さ」ゆえに、より一層理解を拒みます。宇宙には自由はありません。ニュートン力学にも量子力学にも相対性理論にも自由はありません。命あるもののみに自由があります。自由も、意識と同様に、岩石や惑星ではなく、どういうわけか生命に伴っているように思われます。やはりこれも偶然とは思えず、何か同一の原因によって生命と共に誕生した(もしくは最初から在った)のだろうと思います。再び、私は動植物の全てに自由の片鱗があると考える傾向にあります。だからと言って、木が枝を動かせるとか、そういうことではありませんが。

・宗教と神について

「非合理的」という烙印の下に宗教を一刀両断してしまうのは簡単ですが、一筋縄ではいかない面もあります。第一に、この世界には合理性や科学によってはわからないことがたくさんあり、まさにその部分こそが自分の関心の対象だからです。第二に、私自身も非合理性ないしは「信じること」と無縁ではないからです。第三に、そもそも合理性と非合理性の線を引くのはとても厄介です。とはいえ、物語や擬人化による世界理解、神の存在、あるいは経典や教説をそのまま信じるといった、宗教の最も原始的な部分は、論ずるに値しないと考えています。また特定の宗教が提唱する「生き方」も、部分的に見れば役に立つことはありますが、不十分ないしは想像上の世界理解に基づいている以上、その全てを鵜呑みにすべきではないと思います。

宗教を「真偽よりも信仰を優先する」ものとして考えたとき、私にとって宗教が救済になりうるか否かは、「真でない」と分かっている事柄を信じることができるか否かに依ると思います。私には「真ではないと思っていることを信じる」ということがどういうことかよくわかりません。「信じる」とはすなわち「真であると信じる」ことに他ならないと思います。

・言葉について

私は言葉を使いますが、言葉の使用が何か自分にとって重要な問題に対する考えを偏らせ、あるいは歪めていると感じたことはありません。あるいは、自分にとって重要な問題自体が、言葉の使用によって問題然としているだけの疑似問題であるとも思いません。「言葉が無ければ思考も無い」とは思いませんし、「言葉が無ければその言葉の指示対象も無い」とも思いませんし、「言語の限界が思考の限界と一致している」とも思いません。たとえば、「死」という言葉が無ければ死は無い、とは思いませんし、死という現象は言葉の空間で扱えるものではない、とも思いません。

もちろん、違う人間が同じ言葉を使う限り、意思疎通や相互理解の問題は常に生じますが、それは単なる実践的な問題であり、そのことが何か自分の世界理解を根本的に歪めているとは思いません。私にとって言葉は、言葉以前の外的対象なり内的表象なりを記号化し他者と共有するためのものです。おそらくとても常識的な言語観だと思います。




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死、書くこと、考えないこと  


 死ぬことが怖い。死ぬこと、つまり永遠の存在消滅。何を考えていても、結局、ここに戻ってきてしまう。もっと現実的に、どうやって生きてゆくか、という類のことを考えていても、次の瞬間には「そんなことはどうでもいいんだった」と、それまで考えていたことが死の観念によって一掃される。そして振りほどくように頭を空っぽにして、もぬけの殻のような時間を経て、また「どうやって生きてゆくか」と考え始め、ずっとこの繰り返しである。
 このことについて書いていいのか、書いていいならいつどのタイミングでどこに書いていいのか、書いたことを後悔しないのか、自分には全然わからない。けれども、この恐怖ないしは虚無という肉体的な実感を無視して何か考えたり書いたりしようとしても、なにもかもが断片的に感じられ、次の日には忘れてしまっているか、どうしてそんなことを考えていたのかわからなくなってしまっている。何かを書くときに一人称的な肉体感覚を話の糸口とすることは甘えだと思うが、そうでもしないと、些末なことも重大なことも何もかもがのっぺりと等価に感じられ、収拾がつかなくなってしまうのである。
 元来、死について考えることは、生きることを断片化してしまう。ずっと目的をもってやってきたはずの大小のことが、どこにも繋がっていないのだと知って、日常のあらゆる行為が、言葉が、バラバラになってしまう。生によって紡がれるはずの一つの物語を断片化してしまうのが死である。けれども逆に自分の場合は、まったく忌々しいことに、長く死について考え感じてきたので、少なからず死というものを幹として思考や行動が枝葉を広げてしまっており、「死について考えないようにすること」のほうが、自分の思考や記憶をバラバラにしてしまう。つまり自分は、死について考えようと考えまいと、どちらにしても、一つの整合的な存在として生きられない運命にあり、引くも地獄、進むも地獄、それがどうにも苦しい。
 書くことはひとつの救いである。なぜならそれがたとえ整合的でない、バラバラで矛盾したことでも、一枚の紙の上に、あるいは一冊の本の中に書けるからだ。それを持っていれば、いくらか安心する。
 最近ようやく少し読んだり書いたりできるようになってきたが、ずっと言葉を扱うのがしんどかった。せっかく頂いた大小の執筆の話も保留するしかなく、何か書けたら見ていただけますかと言ったきり。三冊目の本は無事に初版完売したようだが、増刷するほどの売れ方をしているわけでもなく、絶版ということになるだろうという話だった。寂しいものである。
 肉体感覚を思想的に昇華させることは、生産的な行動の一つであろう。つまり、「死が怖い」ではなく、「やがて死ぬことを知りながら生きている人間存在の矛盾」といった具合に。その矛盾は元を辿れば、人間が宇宙開闢の意識存在であると同時に、意識している自分を意識する神のような視点を持ちうることの矛盾であり、さらにその矛盾を見つめてゆくと単なる人間の認識のみに関わる(認識論的な)矛盾ではなく、世界そのものの(存在論的な)矛盾へと繋がっている。少なくとも矛盾した我々は、ただそこにありのままに存在している単一の世界というものがどういうものか想像することすらできない。古今東西の哲学はこのことを手を変え品を変え言っているものと理解している。しかしそうして思想的に遠くまで行って何か生産的なことをした気がしても、次の瞬間には、以前とまったく同じ場所ー恐怖と虚無ーに佇んでいることを見出して呆然とするのだ。
 「生産的な行動」の虚しさに打ちひしがれると、負の感情の渦に引きずり込まれる。物事を人生の内部の問題としてしか理解しない世間に対する絶望のような寂しさのような気持ち。自分の人生、あるいは他人の人生の「内容」が、良いか悪いか、恵まれているかそうでないか、幸せか不幸か、成功か失敗か、そういう物語語しか話さない世間に対して感じる孤独な気持ち。あるいは、それと相反するようではあるが、強迫的に死について考えてしまう原因はやはり自分の人生の内部にある(あった)のではないか、といった自己否定、後悔の類。大きすぎる生を戒めるために虚無が膨らみ、いくつかの要因によって生が萎んだとき虚無だけが残ったのではないか。しかし、仮にそうであったとしても、つまり、自分の生き方が間違っていたから死について考えてしまうのだとしても、それでもなお、死の問題、永遠の存在消滅の問題は、厳然として残っている。生き方が正しいかどうかなど、そんなことはどうでもいいのだ。いやしかし、この肉体的な苦痛の原因は死の問題そのものに起因してはいないだろう。何らかの現世的な理由があったはずである。いや、自分個人の人生の内容が苦痛であるか否かなんてどうでもいいのだ。やはりいつか死んでしまうのだから。いや、さしあたって生きてゆくためにはそのどうでもいいことが重要なのだ。そのどうでもいい「人生の内容」を良くしようとすることが唯一の生きる術なのだ・・・堂々巡りである。
 最近はよく東京でウーバーイーツというフードデリバリーの自転車を走らせるようになって、これが一つの逃げ場になっている。自分には、この仕事が良いか悪いか、つまり労働条件がどうとか、フードデリバリーが来るべきインフラのひとつとなるのかとか、これをすることで世界が良くなっているかとか、そういう難しいことはよくわからない。ただ、依頼を受けて自転車で走っている時は何も考えなくてよくて、それがものすごく気持ちいい。お金が増える増えない、どのくらい効率的に増える、という単純なことを考えているのも、何も考えていないのとほぼ同じで、気持ちがいい。本当に危険なくらい気持ちがいい。家に帰ってシャワーを浴びて一段落すると、また走りたくなり、明日になるのが待ち遠しいとすら思う。「何も考えない」ということをこんなにも求めていたのだなと実感する。
 「何も考えない」ことが自分の抱える問題の解決にならないのはよく知っている。むしろ「何も考えない」ことを万能薬のように称揚する仏教的なるものにはずっと反感を覚えてきた。ただ自分の場合は、解決のない中でそれでも生きてゆくための現実的な方法として、つまり対症療法として、あるいは道具として、今はなるべく何も考えない時間を作らなければならないように思う。自分は無趣味なもので、趣味に没頭するような「何も考えない」時間を作ることがとても難しかった。だから「良い趣味ができた」とも言える。頭を空にして核心的な問題を考えないようにするために、これまで様々なアルバイトや畑、歩くこと、数学といろいろ試してはやめてしまっていたが、果たして今回はどうなるだろうか。
 走っていると気持ちがいい反面、止まるのが怖い。依頼が来ないときは闇雲に走り回っても仕方が無いので止まることもあるのだが、そうするとこれまで猛スピードで動いていた風景が静止し、ずっと耳を覆っていた風切り音が止み、血の巡りの良くなった体だけがただそこにポツンと佇むことになる。そうするとまたいろいろと考えてしまう。
 自分は、日常が欲しいのだ。そして日常を見失ったとき助けになるのは、たくさんの人が同じ日常を共有しているということ。自分もその共有された日常の波に無意識に乗っているということ。自分が小屋暮らしを続けられないと思った最大の理由。自作小屋の暮らしは、自分一人の意識が、自分一人の日常が、自分一人の正常さが、すべてである。それが崩れたときにすがるものがない。これを弱さだという人は、本当に目の前がグラグラした経験や、思考そのものに吸い込まれるような危機を覚えたことが無いのだろうと思う。もちろん、他人と共有された日常も盤石ではない。けれども、生きてゆくには、「考えることをやめる」「他人の意識に身を委ねる」といったような非本質的な助けが必要なのだ。
 春も幾日か小屋へ帰った。いつも通り小屋の内外をきれいにして、湧き水でコーヒーを飲み、来し方行く末を思い、静かなロフトで深く眠って、そして東京へ戻ってきた。特筆すべきことはなにも無い。宿泊費無料の小旅行と思えば最高であるが、そこには「暮らし」としての矜持は無い。そういえば、バイクの整備マニュアルを購入し、徹底的にバイクを直すのが春のメインイベントとなる予定だったが、肝心のマニュアル本を東京に忘れてきてしまった。なんだか最近そういうのが多い。前はそういう類のミスは滅多にしない人間だったのだが。
 僕はとにかくゆっくり生きてゆきたい。「ゆっくり生きてゆくことで得られる何か」を謳うつもりは毛頭なくて、忙しくしている人は忙しくしている人で充実しているということはよくわかる。けれども、自分には向いてないと思う。自分には、節約しながらゆっくり生きてゆくのが性に合っていて、将来的にも田舎か都会かはわからないが、そういう生活をしたい、そういう生活しかできない。




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