寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

世界の不思議  


昨日紹介した『Bを探しに』という曲。



歌の歌詞を解釈するのは野暮であると承知の上だが・・・

世界は不思議がいっぱいだから わたしのBを探しに行くの

まずは外的な世界の不思議さを認識することから始まる。そして探究の旅に出る。

時間はいつ始まっていつまで続くのか 空はどれだけ広いのか

時間と空間の問い、宇宙論の問いである。したがって物理学の問いである。

数万年眠っていた種だって ひとたび目覚めると綺麗な花を咲かすことができる 強い命の不思議

これはもちろん、生物学の問いである。

ある日わたしは気付いたの わたしも不思議に満ちている
わたしの中に広がる宇宙 わたしのBに気付いたの

そしてある日、探究者はある種の認識論的転回に至る。外の世界の不思議さを認識していると思ったら、実はその認識している自分こそが不思議なのだと。

かつて宇宙論を研究していた物理学者は「我々は広大な宇宙の謎について探究していると思ったら、結局辿り着いたのは我々自身の謎であった」と言った。宇宙が先か、人間が先か。

また、単なる物質的運動とは明らかに違うメカニズムが働いているように見える生命体の世界。「意識」がまさにこの生命原理の場において生じていることが単なる偶然と考えることは不自然である。むしろ「わたしの中に広がる宇宙」こそが万物創世の根源なのではないだろうか。生命が先か、意識が先か。

そうして、外的宇宙の中に意識存在があって「不思議だなあ」と思っているという世界像から一転して、「不思議だなあ」と思っている自分こそがその不思議の鍵を握っているのだと気付く。

この自然と人間の奇跡を肌で感じ、その奇跡に包まれていると感じるときが、人が最も幸せと安らぎを感じる一つの瞬間である。

頭が「生きる」ことに特化してしまうと、「生きる」ことに繋がること以上のことを考えられなくなる。不思議が不思議であることを忘れてしまい、世界に対して不感症になってしまう。


これとは少し意味がずれるが、『Bを探しに』の作者はこんなふうに言っている。

なかなか日常忙しくしてると目の前のことだけで大きな世界のことをついつい忘れてるというか、そういう風に過ごしていくことが多いですよね。でも、すこし大きな視点から見てみると地球という場所に生まれて、いろんな自然の恵みをうけて生きている、生かされている、と感じることができる。・・・偶然とは絶対思えないような、すごい関係が成り立っていますよね。
http://www.shiseido.co.jp/benefique/brandstory/





category: ライフスタイル
cm: --

スイッチを切る  


DSC_0259.jpg

このロフトは死んだように眠れる。ぶら下がっているのは、手を使わずに読書するための洗濯ばさみである。

小屋を留守にしていると薪ストーブとロフトが異常に恋しくなってきて、放浪や短期アルバイトや他の場所での生活から小屋に辿り着いた瞬間はとてもホッとする。

その恋しさや安堵の正体は何だろうと考えてみると、やはり「低空飛行」ないしは「スイッチを切る」というところにある気がする。肉体のスイッチ。人間関係のスイッチ。金銭の遣り取りのスイッチ。義務のスイッチ。言葉のスイッチ。思考のスイッチ。時間のスイッチ。全部切りたい。

もちろんスイッチを切ったままでは生きてゆけないし、やるべきことは出てくるし、そんなに理想的にはいかないのだが、自分が生活の全体において何を求めているかと言えば、「スイッチを切れる場所」だと思う。そして「スイッチを切れる場所」として真っ先に思い浮かぶのが、オフグリッドの小さな庵のような場所である。

DSC_0271.jpg

「スイッチを切りたい」という欲求を、ひとえに、複雑で、冗長で、重たくて、忙しくて、騒々しくて、無駄が多い現代の人間社会のせいにしてしまうのは簡単である。とりわけ、僕が本で「空回り経済」と称したように、自転車操業的な経済の構造に目が行きがちである。一体、何が空回っているのか、その全てを把握することは不可能だが、多くの文献でも異口同音、たとえば『ぼくはお金を使わずに生きることにした』では「消費主義のルームランナー」(p.211)というような形容をされている。そして、構造的な側面から徹底的に「空回り」を排除しようとすれば、厳格なイスラム原理主義であったり、酷い例になるとポル・ポトであったりということになる。『自立社会への道』では、ポル・ポトを名指して「やり方が間違っていただけで、考え方は合っている」と明言しているし、『脱資本主義宣言』では、「自分の生きづらさを何とかするためには経済を何とかしなければダメだ」と明言している。

しかし、マクロに見れば確かに経済が空回っているのだが、その空回りの原動力となっているのは、あくまで「個人の空回り」である。そしてこの「個人の空回り」が本当に無意味なものかどうか、人間にとって原理的なものか否か、経済構造によって後天的に作られたものなのかどうかという点が、僕にはよくわからない。

「個人の空回り」の悪い面だけを見れば、『スモール イズ ビューティフル』で言われているように、欲望や嫉妬を公然と利用しているのが経済至上主義であり消費至上主義であるということになる。しかし、例を挙げればきりがないが、たとえば小説は空回りだろうか。人間が際限なく物語を求める心を満たそうとする小説家には畑でも耕してもらったほうがこの世界は良くなるのだろうか。そのほうが人間の目的に適っているのだろうか。

問題は、どこまでが空回りなのか、言い換えるなら、どこまでスイッチを切ったらいいのかという点である。自分自身は気まぐれというか、服を選ぶのとか食材を選ぶのとかその他諸々の買い物とか本当に面倒くさくて、何ならもうみんな同じ作業服と米・味噌・卵でいいから全部配給制にして欲しい、音楽も聞きたくない、小説も読みたくない、と思うときもあれば、自分が「空回り」と無縁でないことは、毎日お茶漬けばかり食べているうちにポテトチップスを食べたくなったり、心停止したような時間が続いているとやがてまた音楽や物語を欲するようになったりすることからもよくわかっている。

P1070517.jpg

しかも、自分はスイッチを切りすぎることがある。煩わしい人間関係だけでなく、純粋な愛情ですら自分の領域に入ってきて欲しくないと思うときがある。栄養豊富な食事を見ただけで胸焼けして、お茶漬けを食べたいと思うときがある。蛇口をひねると出てくる大量の水を見たり、電線に乗って流れてくる大電流を想像しただけで、とても疲れてしまうときがある。

自分の生活は「質素な小屋暮らし」ということで表面的には聞こえもいいのかもしれないが、その内実をよくよく聞いてもらうと、眉を顰められるというか、一般受けしないだろうなと思うのは、スイッチを切りすぎる理由がマジョリティには伝わらないだろうと思うからである。でもたぶん、1000人に一人くらいは心から共感してくれるだろうという気持ちもある。自分が望むのは、多数の共感ではなく、ホンモノの共感である(参照:「親友の自給」)。別にその存在を確認できなくてもいいが、どこかにいて読んでくれているのだと思っている。

自分が好きな時に、生きながらにして死にたい。スイッチを切りたい。心が死んでいるときに生活が賑やかなのが一番苦痛だからである。

DSC_0184.jpg





category: ライフスタイル
cm: --

健康で文化的な生活よりも低空飛行したい  


もしも、路上や公園や河川敷や空き地で寝袋にくるまって夜を明かすことが色々な意味で認められていたとしたら、自分は小屋も建てなかったし、河川敷に土地を買うこともなかったし、旅に出ることもなかったんじゃないかなと思う。

自分が欲しいものは低空飛行、これに尽きる。体温の保存、すなわち最低限の水と食料、および寝袋、これだけ確保して、あとはあらゆるスイッチを切って、気の済むまで放心していたい。

たったそれだけのことが一体どうしてこんなにも難しいのか僕には本当に理解できない。世の中では、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとかしないとか言われてるけれども、僕が欲しいのはそんな仰々しいものじゃなくて、ただ生きているだけの地面すれすれの低空飛行。

もちろん、一生そうしているのがいいとは思わないし、放心しているうちにいずれ何かをしたくなるかもしれないけれど、スイッチを切りたいときに切れないというのは、病気になった時に病院へ行けないのと同じくらい恐ろしいことで、僕には考えられない。

タイでは結構その辺に人が転がってたりして、水と食料はお寺経由で恵んでもらえたりして、最近は乾季で雨も降らないし、タイのトイレはウォシュレット用の水道が付いていて排水溝もトイレ内にあるので、例えばパーキングエリアのトイレで普通に水シャワーが浴びれてしまう。実際に外国人の僕がやるのは安全上の問題があるが、そういう人たちがなんとなく存在を認められている状況は端的に羨ましいと思う。

自分の生活のテーマは小屋暮らしでもないし、田舎暮らしでもないし、貧乏暮らしでもないし、最近「ミニマリスト」という言葉が近いのかなと思ったけれど、やはり少し違う。自分が欲しいのはスイッチを切って低空飛行できる場所であって、でも日本では公園で夜を明かすことは認められていないので、次善策として、あるいは順法闘争的な手段として、小屋が出てきたり、テントが出てきたり、海外放浪が出てきたり、お寺籠りが出てきたりする。どれも一長一短あって完璧なものはない。

スイッチを入れるのならともかく、スイッチを切るための場所をわざわざ自分で能動的に作らなければならないのは、宇宙全体としては自然法則に反するように思えるけれど、地球ないしは日本という局所的にはビンビン電気が流れているから仕方ないのだと思う。その電気は経済活動だけじゃなくて、なんというか、生きようとする欲動のようなもの全て。





category: ライフスタイル
cm: --

プロフィール

最新記事

最新コメント

著書

寄稿など

カレンダー

カテゴリ