寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

時間が飛ぶ  


今日は草刈りをしていた。

ときどき、時間が飛ぶ。現在進行形で起こっていることがもうずっと前に起こったことのように感じる。あぁ、こんなこともあった、あんなこともあった、いろんなことがあった。

もう何日か後には死ぬような、というより、もう何日か後に何十年か後が迫っているような、そういう気持ちになる。昔からよくある。最近とかくよくある。

前は強がって、僕は強欲だから意図的にそういうことをするのだと書いた。確かに意図的に時間を飛ばすこともあるが、大抵は不可抗力的に時間が飛んでしまう。

それが悲しいとか嬉しいとか良いとか悪いとかいうことではないが、あえて言うなら少し静謐な気持ちになる。

それでも生活はしなければならないから、キッと時間を元に戻す。





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蛇について  


意味、意義、価値、動機、目的、解釈、文脈、物語、それら全ては「生」から湧き出てくる。この宇宙に「生」が存在しなかったら、価値も目的も物語も何も存在しない。

自我や自己同一性を支えてくれているのは、今日何を食べたというような事実の羅列ではなく、私の名前は何々であるというような知識の集合でもなく、様々な文脈から成る物語の流れであり、その数々の物語の総元締めが「生」である。

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ある日突然蛇が現れて、その「生」を丸呑みしてどこかへ運び去ってしまう。

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すると残るのは、事実の羅列や知識の集合のみである。生活に意味は無くなる。いかなる文脈も意味も価値も物語も存在しなくなる。

さて、どうやって生きていったらいいのか。いくつか選択肢が考えられる。

まず、物語や解釈無しで、あるいは自己同一性を失ってバラバラになった個別的な物語のみで、バラバラのままに生きてゆく道。訪れては過ぎ去ってゆく事実や物語をあるがままに受け入れて生きる。

次に、自分の物語を外部からやってくる物語に委ねる道。家族や友人が、学校や職場が、テレビやインターネットが、あるいは宗教が、様々な意味付けや価値や目的や物語を提供してくれる。それに自己物語を同化させてしまう。そうして自己を超越した大きな「生」の一部分として生きてゆく。

最後に、自分で一から物語を描く道。そこにおいて、物語の描き方は本質的に自由である。目の前の現実に没入し「生」と一体化することで自然に得られる物語ではなく、能動的に描いた物語に生きる。生きることによって物語を描くのではなく、物語を描くことによって生きる。





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僕は強欲な人間だと思う  


今という時間はどうしたって即物的で、原理的に美しくなりえない。過ぎ去ったものは全て美しい。過ぎ去ったものだけが美しい。

しかし、過ぎ去った美しいものは、過ぎ去ったことによって美しくなったのであって、最初から美しかったわけではない。

だから、今が美しくないことを嘆くのはお門違いというもの。今をなんとか美しくしようと思うからしんどいのだ。今は美しくしようがない。美しくしようと思えば思うほど、その執着心が時間を汚してしまう。

そういう了解のもとで生きてゆくためには、美しくない今を美しくないままに泳がせながら、ゆっくり時間を醸造してゆくしかない。未来に委ねるしかない。

しかし、堪え性のない僕みたいな強欲な人間は、今に生きながら同時進行で、今を過ぎ去ったものとして感じようとする。今絶対に手に入らないはずの美しさを、何が何でも今手に入れようとする。





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