寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

純粋な快楽  


明朝はさぞかし寒かろう。目が醒めて、おお寒い、やはりテントなんてやってられん、山小屋を建てといてよかった、早く薪ストーブで暖まろう、そう思うだろう。よし明日帰ろう。・・・などという予定で寝たのだが、早朝五時半に目が醒めるも全く問題なくヌクヌクだったので即二度寝した。

前日の夜予定を決めて、さらに当日それを覆す。これぞ求めていた柔軟性である。

さて、コメントで「金の話ばかり」とご指摘いただいたので、今日も金の話をしようと思う。


先日の記事でルソーの『告白』から一部を引用したが、その中に、

私の欲しいのは純粋な快楽だけで、金はそれを台無しにする。

という文言があった。

これは一つには(そしておそらくルソーの意味では)、金や交換によって「損得」や「等価性」、「計算的なもの」が加わってくると、信頼は不信へと変わり、隣人愛や相互扶助の精神が途絶え、最近の言葉で言うなら「きずな」が断絶し、中沢新一的に言うなら「贈与の霊」が鳴りを潜めてしまうということである。

高級レストランの丁重なサービスを楽しめるかどうか、あるいは下品な例で悪いが、風俗での性的行為に快楽を感じるかどうか、ということである。ルソーに言わせればそれらは「純粋な快楽ではない」ということになる。

売買か心の絆かという二元論において安易に、かつ必要以上に後者を強調する人を僕はあまり信用していないが、少なくとも、この意味での「金のつまらなさ」はわかりやすい。


金のもたらす等価性が台無しにするものは他にもいろいろあって、とりわけ最近感じているのは「冒険の快楽」である。

一体、冒険はどこにあるのだろうか。

人類にとっての「未開の地」への冒険は、金と科学技術によって勝負が決まる。深海に潜り、山の頂を目指すのは、金がある人間がトップに決まっている。金がない人間がこれに対抗するとすれば、せいぜい自分なりの縛りを作って「素潜りで何メートル潜れるか」みたいな限定されたルールの中で競うくらいだろう。突き詰めると「竹馬で日本一周」みたいなことである。それではつまらない。「登山」だって、荷物を背負って自分の足で登るという一つの縛りである。

僕のテントサイトからはエンジン付きのパラグライダーが空を飛んでるのが見える。あれは金を払えば手に入る遊びである。
どんな趣味も、「どれだけいい装備を整えられるか」「どれだけ最先端の技術を手に入れられるか」という金による競争に参加した途端につまらなくなる。それはお札が1枚か10枚かという違いでしかない。果ては、金持ちはなるべくいいロケットに乗って競って宇宙へ行くようになるかもしれない。それに乗って月まで行って帰ってきた投資家や社長さんが「素晴らしい経験をした」と言うのだろうか。
野宿をするのにあれこれの道具に目が行って車が買えてしまうような装備を整え、野宿をしたいんだか商品を使いたいんだかわからないような人に疑問を感じるのもそういうところだ。

一方、無一文でその辺に放り出されたと想像してみよう。とりあえず今日明日を生きていかなければならない。不安だが・・・健康な男子なら誰でもワクワクするだろう。

無一文は極端だが、つまるところ、純粋な冒険は日常生活にしかない。しかも、日常生活の一部ではなく、その全体にしかない。ただ単に生きること、それが一番の冒険である。
装備を整えてエベレストに登るよりも、その辺の森や河原や街中で単に生きるほうがずっと冒険欲を掻き立てられる。それは、マネーゲームよりも直接的で、かつ、全体性を持ち、そして固有なものだからである。

自分の日常生活という冒険は、決して等価交換されない固有なものである。
「未開の地への冒険」は、冒険である前に競争なのだ。山なんて誰が登ったっていいし、海なんて誰が潜ったっていい、そういう競争なのだ。
自分の人生は自分で送ることしかできない。だから競争できない。

ルールは与えられている。自然と、社会である。
そしてそのルールの中で、自分が偶然得た知識、偶然得た情報、偶然会った人、偶然その辺にあったもの、それらを駆使して固有の冒険をする。自分自身の人生という文脈の中で、冒険をする。僕らが生まれたときそうであったように。

僕自身も純粋な冒険者ではないし、「贈与」と同様に、「純粋な冒険の快楽」も二元論のうちの一つの極であることはわかっている。つまり、「自分の人生」というこの不思議な存在に安寧する極と、それが実はone of them、70億分の一であるという匿名性の極のうちの、前者である。
しかし、札束でも数えるように自分の人生を計量しようとしてしまうとすれば、それもまた二元論のうちのもう一つの極に陥っていることになる。どっちが正しいわけでもないのだ。




category: お金の話

「お金」という存在について  


河川敷では米を一切炊いていない。他の主食に比べると高いし、面倒なので。

朝・・・パンとコーヒー。
昼・・・サンドウィッチ(ベーコン)とゆで卵2個、バナナ1本、コーヒー(100均マイボトル)。
夜・・・主食は麺類。玉ねぎ、人参など、保存の効く野菜を入れて。肉買ったり、果物買ったり。料理はしない。焼くだけ、切るだけ、茹でるだけ。

朝と昼で150円也。夜だけで150円也。毎日300円也。

昨日は肉が足りなくて、今日は野菜が足りなくて、でも一週間のサイクルで見ればまあまあいい食事。たまに外食したりするし。

食事はいろいろやってきたけど、極端な節約(パンの耳で暮らすとか)をしないで、完全にスーパーに頼って、なるべくお金も手間もかからないように、お腹一杯食べようとすると、だいたい一日300円くらいに落ち着くんじゃないだろうか。


「お金」という存在について、ある種の人間にとって考えることはみな同じで、以下『告白』(ジャン・ジャック・ルソー)より引用。

そのうえ私の好みはみな金で買えないことばかりだ。私の欲しいのは純粋な快楽だけで、金はそれを台無しにする。

・・・私は自由を何より愛する。束縛、苦痛、屈従が嫌いだ。財布の中に金のある限り、私の独立は保証される。また別の金を手に入れようとあくせくしなくていい。その心配が私には耐えがたいのだ。そこで、そいつがなくなる心配から、ケチケチする。持っている金は自由の手段だが、求めようとする金は隷属の手段だ。私がよく節約して、何も欲しがらぬのは、そのためである。

それだから、私の無欲はつまり怠惰に過ぎぬといえる。じっと持っている楽しみは、得ようとする苦痛にかえられぬ。

僕には、このまま生活していけばあと10年くらいは寝てようが徘徊してようが生きられるお金がある。それが僕にとってどんなにありがたいことか。

節約することによる面倒や味気なさは、お金を稼がなければならない面倒や味気なさに比べれば何てことはない。




category: お金の話

不動産会社設立費・維持費  


僕が自宅で不動産の株式会社を始めた場合、

・初期費用 1,710,500円
・年間維持費 127,000円

かかります。


初期費用

株式会社設立費用(電子定款利用の一例)

・登録免許税 150,000円
・定款認証 50,000円
・電子定款謄本 2,000円
・電子定款作成代行(行政書士報酬) 5,000円
・手数料 7,350円
・小計 214,350円

ちなみに合同会社(LLC)設立費用(電子定款利用の一例)

・登録免許税 60,000円
・電子定款作成代行(行政書士報酬) 3,000円
・手数料 7,350円
・小計 70,350円

保証協会(全日)への加入(一例)

・全日本不動産協会(支部含む) 502,000円
・不動産保証協会(保証金分担金含む) 730,000円
・関連政治団体(半強制) 110,800円
・小計 1,342,800円

宅建業知事免許

・免許取得費 33,000円

事務所(自宅利用の場合は出入り口を別にして業務専用のスペースを設ける)

・自宅の敷地に簡単な小屋をセルフビルド 50,000円


初期費用合計

・株式会社 1,710,500円
・合同会社(LLC) 1,566,500円


会社設立後、何もしないで寝ていた場合の年間維持費

・法人税(均等割り) 70,000円
・全日本不動産協会年会費 39,000円
・不動産保証協会年会費 15,000円
・関連政治団体年会費 3,000円
・合計 127,000円


高級マンションを仲介しても、小さな山林を売買しても、同じ費用です。




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